夜を徹す氷雨にしとど濡れし身は 翼おもたく地に立ちつくす なべづるのひしめく冬田 たけ高く歩むまなづるを 目放ちがたし 北をさし いま発ちてゆく鶴群の 万羽の声は 空をとよもす 去りがたく あけぼのの空翔びめぐり 鳴き交すなり。あはれ 鶴群 特攻機つらねゆきたるわが友の まぼろし見ゆる。天のたづむら 海に出て 群ととのふるたづむらの 大きうねりをはるか見まもる めざしゆく北の荒野は 草萌えのまだ遠からむ。つつがなくゆけ
昨年十月、篠弘氏が「日本経済新聞」の「交遊抄」という欄に私のことを書いてくださった。新聞が新聞なので、歌人よりも学部(政経)の古い友人からの反響が予期せぬほど多く、おかげで何人もの友と旧交をあたためることができた。言われてみると確かに一九五一年五月、早大短歌会で相見えて以来のこと、実に半世紀以上にもなるのだ。そこでふと思い出した。昔の短歌会の記録など残っていないか。某日、屋根裏部屋に上がり、埃まみれの段ボール箱をいくつか引っ繰り返してみた。 あった。昭和二十六年の早大短歌会の詠草記録が数回分、翌年東大で行なわれた大学合同歌会の記録が一葉、ほかに「槻の木」の月例歌会の記録が数回分、まさにセピア色になったザラ紙の紙束が出て来た。私は整理が悪く、この手のものはほとんど保存していないのだが、歌を始めたばかりのその頃は、至極まじめだったらしい。驚いたことに、早稲田の短歌会の詠草はほとんど手書き、つまり口述筆記なのだ。進行係が読み上げるのをみなそれぞれのノートや罫紙に書き取って、そこから議論をはじめたのだった。コピーのない当時、時間に余裕があれば大学合同歌会のように、あらかじめ謄写版印刷が出来る。が、貧しい大学短歌会、毎週月曜日というハイペースだから、いつもぶっつけなのである。私の属する結社「槻の木」では、当日集まった詠草を能筆の人が大きな紙に墨痕鮮やかに書きあげ、それを壁面に張り出し、その紙を見上げながらの批評会であった。今日の電子メールの歌会など、夢にも思えぬ時代である。 そこで作品だが、これはあまり麗々しく書きたくはない。でも記録は記録なので、少しだけ紹介しておこう。私が出たはじめての早大短歌会は五一年(昭和二六)五月十四日、早稲田の喫茶店エリーゼの和室で行なわれた。上級生は数人で、あと新入生が十数人いた。都筑省吾、窪田章一郎両先生が指導講師として出席された。「まひる野」の高橋三郎、「槻の木」の高田敏、原田清といったところが顔役であった。私の出した歌は「胸のうち動揺おこれりこののちの生き行く道にうたがひもちて」という幼稚な歌で、互選の票は二票。ところで会がはじまってしばらくたった頃、小柄で眼光鋭い一年生が入ってきた。「遅くなりまして」などとしおらしく挨拶して着席した彼は、続けられていた批評の中にすぐさま割って入り、先輩たちと丁丁発止とやりあうのであった。隅のほうで小さくなっていた私はそのやりとりに舌を巻いた。その人の名は篠弘という国文科の学生で、何でも谷鼎という窪田空穂門下の高弟に、高校時代から学んでいるらしいとの噂であった。その時の篠弘の歌は「つややかにかがやく木の芽にひるの雨風すぢみせて春あたたかし」で、遅刻したために互選の票は入っていない。 毎週毎週のことなので、やがて二人の仲も接近する。当時の早大短歌会は空穂系一色といってよい状態、とくに国文科学生の大半を擁する「まひる野」と、政経、商、理工の学生らの「槻の木」とが勢力を二分していた。会は活発で、時には東大や共立女子大の人たちを招いたり、先輩の武川忠一・植田重雄氏らをゲストに迎えたりした。そのうちに大学合同歌会が企てられ、東大の山上会議所や参議院議員会館などでしばしば歌会があり、のち大学歌人会に発展する。今私の手元にあるのは五二年(昭和二七)五月十七日に東大法文経四号室で行なわれた歌会で中野菊夫氏がゲストで出席している。 オルガンの沈める楽が流れつつ昼闌けて濃き五月のひかり 中西 進(東大) 触れてゐる髪にしめりの残りゐて美しかりし野の雨を言ふ 岡井 隆(慶大) ほつれ毛を気にしつつ妹の出でしあと散りかけのチューリップを窓下に捨つ 伊藤文学(駒大) 痛みありて淋しきことを吐く母に咲きとげし桃の明るさをいふ 篠 弘(早大) 夕刊にかなしき記事を読みにたり窓辺に口笛を吹きつつ堪ふる 来嶋靖生(早大) 誌面の関係で歌はあげられないが、國学院阿部正路、学芸大金田正直、東大大塚恭男、中村嘉良、早大原田清、三木計男などなつかしい名が並んでいる。 ちょっと注意したいのは、すでに人口に膾炙されている岡井隆の「抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う」(斉唱)の原形と思われる歌がこの会に出ていること。歌集の「抱くとき」がここでは「触れてゐる」であること、漢字ひらがなの表記が微妙に違うこと、歴史的かなづかいであることなど、岡井隆研究者には一資料になるかしらん、などと思った次第。 これらを思い出したのも篠弘の「交遊抄」あってのこと、もつべきものは「友」である。