その日、私は岩波ホールへ急いでいた。路地をぬけたところに、ゴミの集積所がある。電信柱のもとを埋めるように、新聞やダンボールが積まれている。その傍らに古書がひと重ね、紐で十文字に縛ってある。みるとルターやキルケゴールの著作集も混じっている。この持ち主は亡くなったのだろうか。角の手擦れから想像して、長年愛読していたと思われる。少し侘びしい気持で通り過ぎた。 岩波ホールでは、「落穂拾い」を上映していた。フランス映画で、女性の監督アニエス・ヴァルダの最新作である。「拾う」という現代の社会的なテーマを追うドキュメンタリーであるが、実に見応えがあった。ドキュメンタリーは、ややもすると作文的に終る傾向があるが、これは違った。時代の一つの局面を追い、風刺に充ちた眼差しがあり、女性らしい感性をまじえた映像は芸術的であった。 「落穂拾い」といえば、まず浮かぶのはミレーの絵である。女性たちが腰を屈めて落穂を拾う図であり、映画もここから始まっている。収穫後の落穂を利用するのは、昔の人の知恵であった。 ヨーロッパの中世から近世にかけて、収穫後の耕地の落穂を拾うことを、老人や寡婦、孤児や障害者に許し、社会の弱者を保護する手段の一つであったという。高性能の農機具で収穫する現在は、こうした風習は廃れている。しかし、拾う姿はいまも在る。 いま、人々が拾うのは何か、その姿を求めてヴァルダ監督みずからデジタルカメラを手に各地をめぐり、現代の「落穂拾い」を求めて撮影している。 農業国のフランスでは、まずジャガイモ。収穫し、選別して撥ねられたジャガイモをトラックが廃棄してゆく。山のように積みあげられたジャガイモに走り寄る子供たちは、イモを拾ったり投げたり遊びながら唄う。 月曜ジャガイモ/火曜ジャガイモ 水曜もジャガイモ/木曜ジャガイモ 弾む唄ごえに、捨てられたジャガイモの存在が立ちあがってくるようだ。ジャガイモはフランス語でpomme de terre女性名詞である。ポム・ド・テール「地のりんご」とうつくしく呼ばれるものが、無惨に廃棄されているのだ。まさに飽食の時代である。 金曜ジャガイモ/土曜もジャガイモ 日曜ジャガイモグラタン 子供たちの唄声はつづいている。この子供たちにミレーの絵を見せたら、なんと思うであろうか。落穂を拾う敬虔さや素朴さが伝わるのであろうか。 ミレーの絵では、拾うのは女性であるが、現在は男性の落穂拾いもある。目下失業中の男たちが百キロもジャガイモを拾う。男たちは形のよいものから拾いあげる。ヴァルダは男の選びのこしたハート型のものを拾う。ジャガイモの捨てられた心を撫でるように、温かく手に包みこむ。そのヴァルダの手が大きく画面に映し出されるが、手の甲には老斑がある。手も自画像の一つ、ヴァルダはさり気なく自己の老いを見せる。この気取りのない態度に私は好感をもった。 ある日ふと手より枯れゆくわれを見る麦秋の香に覚めしひかりに 馬場あき子歌集『世紀』の一首が脳裡をよぎる。黄金いろの麦のそよぎにつづく人間の手が、ふと呼吸音まで伝えて命の光を思わせている。 畑ばかりではない、取引の終った朝の市場にもゴミは溢れている。なかには野菜の入った木箱もある。ゴミの間をあさるのは浮浪者だけではない。ここ十年、ゴミしか食べていないサラリーマンが堂々と身を屈め拾っている。貧しくて拾うのではない、飽食時代の「捨てる文化」へのアンチテーゼである。パセリを食べる青年の姿もある。ビタミンCとE、ベーターカロチン、亜鉛にマグネシウムを含むと生物学を学んだという青年は詳しい。拾う姿には卑しさも惨めさもない。「捨てる文化」に対して「拾う思想」とでも言えばよいのであろうか。自分なりの簡素な生きかたを見せる。彼が郊外の地下室で、施設の外国人にボランティアで語学を教える様を、ヴァルダは追う。 ミレーが拾う姿を芸術の素材としたように、ヴァルダもまた拾う姿を崇めている。拾うとは、忘れられた存在を立ちあがらせることか。「落穂拾い」が社会的な問題として広がり、ヴァルダの文明批評の切りくちが快かった。 帰途、ふたたび路地を曲る。電信柱のもとに積まれた古書の束は、もうなかった。古紙として回収されたのだろうか。いや、誰かが拾っていったに違いない。誰かが、身を屈め敬虔な態度で拾った、と思いたい。そして古書の言葉が、拾い主の精神の支えとなることを信じ、私はみずからを慰めたのである。