中城ふみ子を巡って
text 松村由利子
四月に出版された中城ふみ子の評伝『中城ふみ子 そのいのちの歌』(佐方三千枝著、短歌研究社)は、非常に丹念に資料を探し出して検証した内容である。結社誌「綱手」に四年にわたって連載された労作だ。そのエッセンスは「もう一つの中城ふみ子論――自筆歌稿から見えてきたもの」として二〇〇四年の短歌評論賞に入選している。
同賞の選考座談会では、菱川善夫は応募作の「最大の発見」は、「中城ふみ子さんの家政学院時代に池田亀鑑先生が指導していた「ひぐらし抄」という詠草集を見つけたこと」と評価している。
ふみ子は帯広高等女学校を卒業した一九三九(昭和十四)年、東京家政学院本科に入学した。源氏物語研究で知られる国文学者、池田亀鑑は当時、東大助教授で家政学院にも籍を置いていた。ふみ子は池田に源氏物語や中世文学を教わったほか、「さつき短歌会」という会に所属していた。
東京家政学院大学は戦火に遭ったため、関係資料がほとんど残っていない。著者の佐方は、何とかこの短歌会の発行していた初期の詠草集を探し出そうと同大の同窓会を通
して卒業生に呼びかけ、学内でも「国宝的な幻の詠草集?」と称されていた「ひぐらし抄」を見つけたのである。これは「さつき短歌会」の第二詠草集だが、第一詠草集はいまだ見つかっていない。「ひぐらし抄」の発行は一九四〇(昭和一五)年八月なので、これに掲載されているふみ子の二首は一七歳のときに作られたものであり、現在わかっている最も初期の作品である。
ふつふつと上る熱情は果もなみ生ける日に生きむかくて死ぬとも
身ぬち籠る穢きものをひそか恥ぢロマンチストになり果てゝ居り
「野江富美子」の名で発表された二首について佐方は、「果もなみ」「身ぬ
ち籠る」といった古語に、「池田亀鑑の中世文学の濃い影響を感じさせる」と見る。しかし、「ふつふつと上る熱情」「穢きもの」などの強い表現には、後のふみ子の歌に見られる強い意志や奔放な感情がほとばしっているようで引き込まれる。
佐方の評伝は、この初期作品の発見にとどまらず、「手帳」二冊、「歌稿ノート」三冊を丁寧に比較したところが特長である。
例えば、以下の二首のような例がある。
月光にまぶたぬらして眠る夜はピユアな乙女にかへるかわれも(「短歌手帳」)
月光にまぶた濡らして眠る夜は清純乙女に還るか我も(雑誌「新墾」)
最終的に『乳房喪失』に収めた際は、「ピユアな少女」と改作されている。パソコンで歌をつくる人が増えている今、ふみ子の推敲のプロセスをたどる作業は、とても新鮮に思える。
ふみ子が第一歌集のタイトルにしたかった「花の原型」は、「年々に滅びて且つは鮮らしき花の原型はわが内にあり」から取られたものだ。この一首が創刊まもない「女人短歌」に掲載されていたことも興味深い(表記は当時のまま)。
論考そのものは堅実で派手さはないが、原資料を探すところから評論の執筆が始まるという原点を示した評伝である。
たまたま今月、第三回中城ふみ子賞を受賞した田中教子の第二歌集『乳房雲』が出版された。受賞と第一歌集の出版がほぼ同時期だったため、受賞作は今回の歌集に収められている。
神の手に乳房落としし我が姿 慣れるしかないひとひらの鬱
隣人の不幸を窺ふやうにして柵に寄りゆくカンガルー一頭
『動物のおつぱい』といふ児童書にヒトの乳房も描かれてゐる
鴨肉を捌(さば)けばくらき胸の中かつて飛びたる空がひろがる
アララギ派の歌人らしい手堅い写実が、ふみ子と同じ病と闘う女性像をくっきりと映し出すが、そこには決して病気や離婚といったライフ・ストーリーに寄りかかることのない作歌意識が見える。「短歌」二月号の「女歌の現在」の座談会では、「これから女性は何を根拠に自分の歌を構築していくのでしょうか」といった発言もあったが、ふみ子とて、自分の境遇を材料として個性を出そうしたのではないと思う。第一歌集『空の扉』と同様、今回もすべての歌に英訳が付されており、読み応え十分の一冊である。
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