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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

第8回日本歌人クラブ評論賞受賞!!
大辻隆弘評論集『アララギの脊梁』定価2800円(税込)


第15回寺山修司短歌賞受賞!!

真中朋久歌集『重力』定価2800円(税込)

※5/3の「週刊時評」は連休のためお休みさせていただきます。
5/10より再開いたします。
※「週刊時評」は2010年6月7日をもって、ひとまず終了いたします。
また、新たな企画を検討しております。(青磁社編集部)


読者とは誰か
text 川本千栄

 3月29日付けの青磁社時評「批評とは何か」の最後で松村由利子から為された〈誰に向かって何のために書くのか〉という問いかけを自分のものとして考えていたところ、4月12日付けの広坂早苗の「誰のために批評を書くのか」を読んで、さらにいろいろ思うところがあった。2年間この青磁社時評を担当してきて、その時々の話題に合わせて様々なテーマで書いてきたが、私の問題意識の底には常にこの「私は誰に向かって書くのか」「他の論者たちは誰に向かって書いているのだろうか」ということがあったように思う。それは多分、短歌の評論を書くようになった十年ほど前から、小さからぬ 違和感として私の心にひっかかっていたことなのだと思う。
 広坂はこう述べている。

 ところで、川本や松村が「読者にとって」という時の「読者」は、誰を想定しているのだろうか。そもそも短歌批評の読者というのは、かなり限られた存在である。歌を作る人の中にも、作品は読むが評論は読まない、という人も多いだろう。読者は商業誌や結社誌の評論を読む習慣のある人、と考えればよいのだろうか。

 これは元々私の4月5日付けの時評「評論に求めること(2)」の中の一節「私自身の評論を書く目的は『(自分と)読者が短歌をより深く理解するため』ではないかと思っている。そのため、私は読者にとって『分かり難い』評論は肯定できない」を受けたものである。
 続けて広坂はこう答えている。

 結社誌や商業誌に批評を書くとき、読者として漠然と想像していたのは、「自分と同じような人」だったのではないかと思う。自分の使う用語を概ね理解し、ついてきてくれる読者。そうした読者の存在を疑うことなく書いてきたように思うのだ。

 このように広坂の想定している読者は「自分と同じような人」つまり、短歌を詠みまた読む習慣のある人たちなのだ。つまり「短歌に日頃触れている人々」と言っていいだろう。
 私の「誰のために」も現実的には広坂と近い。読んでくれる人として想定するのは普段短歌に触れている人々である。
 ただしそれは、最初に意識する読者と言うべきもので、真の読者として考えているのは、それとはかなり違う。私が自分の評論を本当に読んで欲しいのは、普段短歌に何の接点も無い人々である。短歌と言えば教科書で習った茂吉や牧水の数首しか知らない、興味もそれほどない、そんな人に向かって私は書いている。そして、そんな元々短歌に興味の無い人々が、目の付け所に関心を示し、論理の展開に納得し、短歌の魅力と深さを知ってくれるような文章が書きたい、というのが私が評論を書く目的の一つである。
 そのため、評論の文章は、高校生ぐらいの国語力を持つ人なら難なく理解できるように、あるいは自分の母親のような一市民が普通 に新聞を読んで理解できるようにあらねばならないと思って私は書いている。私の目指す「分かりやすさ」は、複雑な事象を不用意に単純化することでも、新奇で目を引く批評用語を編み出すことでもない。あくまで文章表現の明晰さである。
 それらを前提として、最も大切なのは、論の内容である。細かく言えば、例えば、テーマの立て方、素材の選び方、目の付け所の鋭さ、対象の把握と分析方法の適切さ、時代背景・社会状況に対する理解、思考の深さや広さ、論拠となる資料的な裏づけ、などである。それらが明快な論旨に沿って、説得力ある展開をするように書きたいと思っている。
 そうは言っても、現実問題として、短歌に興味の無い人は私の評論など読んでくれない、という事実がある。私のものでなくても総合誌や結社誌に載るような評論を、歌壇外の人が読んでいるとは考え難いのだ。そのため「現実的には」歌壇内に向けて、広坂と同じように「自分と同じような人」を読者に想定して書いていることになるのだが、それで自足していいものかという思いは常に抱いている。
 一体、短歌の評論というのは、文学評論として歌壇外に通用するものなのだろうか。結局、仲間にのみ向けて書かれたもので、内輪以外の所から見れば近視眼的で客観性を欠くものになっていないか、というのが私が持ち続けている危惧なのだ。私以外の短歌評論の書き手はその事をどう思っているのだろうか。不安には思わないのだろうか。
 かつて1962年に上田三四二の「斎藤茂吉論」が群像新人文学賞第四回の評論部門を、最近では2005年に三枝昂之の『昭和短歌の精神史』が芸術選奨文部科学大臣賞の評論等の部門を、また2008年、穂村弘の『短歌の友人』が伊藤整文学賞評論部門を、それぞれ受賞したように、歌壇の枠を越えて評価された評論(集)は幾つかある。受賞云々のことはおいても、例えば短歌の総合誌に載っている評論が、何かの機会に新聞などに載ったら果 たして一般の読者は読んで理解してくれるのだろうか。知的好奇心がかき立てられる、興味深い、と思ってもらえるのだろうか。そんな視点を持って歌壇の評論を考えてみてはどうだろうか。短歌評論が文学評論としての普遍性を持ちえているかどうかは、歌壇全体の問題なのではないかと私は思うのである。     


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