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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

第8回日本歌人クラブ評論賞受賞!!
大辻隆弘評論集『アララギの脊梁』定価2800円(税込)


第15回寺山修司短歌賞受賞!!

真中朋久歌集『重力』定価2800円(税込)


葛原妙子とキリスト教
text 松村由利子

 最近、聖書やキリスト教に関する出版物が相次いで刊行されている。昨年十月に池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館)が刊行されて版を重ね、今年二月には大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書)が出版された。また月二回発行の「pen」三月一日号が「キリスト教とは何か」、季刊誌「考える人」五月号では「はじめて読む聖書」が特集され、ちょっとした聖書ブームの感がある。
 『幻想の重量―一葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店)において、川野里子が「戦後は明治の文明開化と並んで思想的な混迷のなかでキリスト教が注目された時代だった」と指摘しているのは、非常に新鮮だった。葛原の歌のみならず、その時代の文学作品を読むときに、私たちはもっと注意深くなる必要があるのだと思う。いま聖書ブームのように出版が相次いでいるのは、現代もまた「思想的な混迷のなか」にあるからだろうか。
 大いなる存在とどう向き合うか、ということは人生の大切な問題である。岩井謙一が現代短歌・南の会の会誌「梁」七九号に、「反『幻想の重量 』論―一信仰者の視点より」と題した評論で、葛原妙子の歌からキリスト教信仰を読み取ることができると主張しているのを興味深く読んだ。
 岩井の評論は、川野が『幻想の重量』で葛原について「キリスト者ではない」「むしろ積極的な無神論者に近かっただろう」と捉えたことに対する反論であり、今年の「短歌往来」一月号に掲載された「川野里子『幻想の重量 』への疑問」で展開した論をさらに深めた内容と言ってよい。クリスチャンである岩井本人の信仰、聖書理解に基づく緻密な考察は読み応えがある。
 川野のキリスト教理解がやや不十分だった点については、真中朋久も今年一月、「短歌往来」の岩井の評論が掲載された時点において、砂子屋書房のサイトのコラム「韃靼録」で、「信仰を〈読む〉」と題して触れている。

十字架に頭(かしら)垂れたるキリストは黒き木の葉のごとく掛かりぬ  『縄文』
キリストは青の夜の人 種(しゆ)を遺さざる青の変化(へんげ)者  『原牛』
ありがてぬ甘さもて恋ふキリストは十字架にして酢を含みたり   『葡萄木立』

 これらの歌から、川野が十字架にかけられたイエス・キリストのイメージについて、「神の子ではなく、私たち自身よりも救われ難いひ弱な存在である」と書いたことについて、岩井は「十字架上のイエスが弱く無惨で痛みに満ちたものであればあるほど、罪深き人間は救われるのである。その贖いの象徴としてイエスは十字架上では限りなく弱くあらねばならなかったのである」と説く。真中もその部分について、岩井と同様のことを感じたといい、無力なイエスこそが「象徴的なイエスの像」ではないかと述べている。
 イエスが人として生まれ、「神の子」であると同時に「人の子」であったことは、キリスト教信仰の根幹とも言うべき部分だから、教義の理解として岩井、真中の述べていることは正しい。しかし私は、「かりん」三月号に古谷円が「葛原妙子とキリスト教を巡って」と題し、とても率直に「聖書をただ読んだだけでは、岩井の言う十字架にかけられたキリストが弱い無残な存在であればあるほど罪深い人間が救われるという解釈はわからない」と書いていることに胸を衝かれた。教会や聖書になじみの薄い日本人にとって、絶対的な存在である神がそんな無残な姿になるはずがないと考えるのは自然なことではないだろうか。
 また、洗礼を受けることこそ信仰の明らかな告白であり、信者としての証、大きな節目だと解釈するのも、たぶん川野に限ったことではない。亡くなる数か月前に洗礼を受けた葛原が、それまでの間、信仰を告白することを拒んだと見るのは、ごく当然である。岩井自身も「梁」の文章中で、「洗礼を受けることは、イエス・キリストのために命すらささげなければならない立場になる可能性があるのである」と書いているではないか。だからこそ、葛原は神を仰ぐ思いを抱きつつも、「歌人としての覚悟」(川野)を固持して洗礼を受けずにいたのではないかと、私は思う。信仰が心の問題であるのはもちろんだが、目に見える形で告白することで初めて、それが人にも神にも認められたものになる。それが単に教会に所属する会員になることでないことには、岩井も同意するだろう。
 岩井は再三、川野の読みが「頭でのみ」読んだもの、「頭で構築されたもの」と批判しているが、「頭で」というのが歌の言葉に即した解釈を意味するのであれば、それは至極まっとうな読みだと思う。さまざまなバックグラウンドを持つ読者が一首と出会うとき、そこには無数の解釈があり得る。それぞれの個人的な経験や感覚を超えて丁寧に言葉と向き合い、詠み込まれた思いに迫る読みこそ、歌人の読みである。
 「無神論者」という言葉は、川野だけでなく、寺尾登志子も葛原論『われは燃えむよ』(ながらみ書房)で使っている。この表現は、信仰を巡って葛藤し続けた葛原に対して、強すぎる語だったかもしれない。キリスト教の神に複雑な感情を抱き続けた葛原へ心を寄せる岩井が、もどかしさにも似た違和感を持ったことはよく理解できる。しかし、豊かな自然に畏敬の念を抱き、仏式で葬儀を行ったり神社に初詣に行ったりする日本人の多くが、特定の宗教を持たない「無宗教」を自認しているのは周知のことだろう。川野の「無神論者」には、こうした一般 的な日本人の感覚を超えて如何なる神にも恃むことをせず、戦後という時代に「原不安」を突きつめようとした葛原の孤高の生き方を称えるニュアンスがあるように感じる。岩井はこの語を、あまりにも字義通 りに受け取ってしまったのではないか。
 岩井が川野の評論のなかの、ユダヤ教とキリスト教を混同している点を突いた箇所などは、非常に重要な指摘である。キリスト教と葛原妙子の関わりの強さを考えるとき、その作品をさらに深く読み解くには聖書理解が大きな手がかりになるのではないかと思う。ただ、岩井が「心で読む」大切さを強調していることについては懸念を抱く。文学者のキリスト教信仰について作品から読み取ろうとするのは難しい。歌人にできるのは、聖書やその歴史を知ったうえで歌の言葉を注意深く読み込み、鑑賞、分析することのみである。     


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