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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

第8回日本歌人クラブ評論賞受賞!!
大辻隆弘評論集『アララギの脊梁』定価2800円(税込)


第15回寺山修司短歌賞受賞!!

真中朋久歌集『重力』定価2800円(税込)


評論に求めること(2)
text 川本千栄

 前回の私の週刊時評(「評論に求めること」3.15.)について江田浩司が万来舎のHP「短歌の庫」の連載評論第137回3.22.(http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda137.html)で返答をくれた。非常に冷静な文章で、江田の論点が良く分かる。江田の問いかけに答えていくことで、私自身の論点も明確にしていくことができるだろう。直球を投げ返してくれた江田にまずはお礼を言いたい。
 今回、自分の論点を述べる前に、一つの正すべき点を正しておきたい。江田は私の書いた「こうした分かり難い文は歌壇に蔓延しているのではないか」という個所を最初に問題にしているが、確かに江田の言う通 りだ。「蔓延」という言葉は大げさ過ぎ、良くなかった。
 しかし江田は、分かり難い文がある、とすら思っていない。「私が読んだ範囲では理解できないような難解な短歌の評論に最近出逢ったことはない」と述べる。これは何故だろうか。単に私と江田との文章に対する理解力の差であろうか。そうであれば仕方が無いが、私には理解し難い文章の一つとして江田の文章がある。江田は自身の文章をどう思っているのだろうか。自分が書いた文章だから理解し難いことはもちろん無いであろうが、江田の言っている「難解」と私が言っている「難解・分かり難い」が最初から微妙にずれている気がする。
 江田の論の展開は筋が通っており、論だけ読むと大変納得のいくものである。しかし、その論が適用できるかどうかという点では私は幾つかの疑問を持った。以下に江田の文章をまとめ、私の疑問点を付随して述べていきたい。

 私は山中智恵子の初期テクストの本質を分析するには、テクスト論的な方法と構築主義的なアプローチが不可欠であると思っている。また、そのような方法でテクストを分析する限り、難解な表現を含まざるを得ないことを許容している。(前掲 江田浩司 万来舎「短歌の庫」第137回3.22.付けより)

 つまり、難解な対象を、難解な手法で分析するのだから、それを表した文章は難解にならざるを得ないということだ。この説明は、私の論の「難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない。難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示してこそ評論を書く意味がある」という文に対するものだが、私の述べたようなやり方を、江田は「基本的な姿勢であると私も思っている」と述べ、また「テクストに忠実な分析でありながら、分かりやすい表現で説明できるのならばそれにこしたことはない」と述べているので、難解な文章の方がいいと思っているわけではないのだ。それどころか、私の意見と江田の意見は、ある程度一致していると言えるのだろう。その上で江田は、どうしても難解にならざるを得ない場合として自分の評論を説明している。そこで私も「内容が難解であれば、それを扱う文章が難解になる、という場合もあるのだ」ということで論を進めたい。それはもちろん、「書いた文章を充分に吟味・整理して、それでも分かり難い部分が残ってしまう」という限りにおいてである。
 次に江田は、自分と同様の取り組みをしている例として、大井学が浜田到の短歌を解釈した例を紹介している。浜田到のメタフィジカル短歌を解釈する際、大井のように難解な表現を取ることは必然であると説明する。

 大井のこの歌に対する解釈は栗木の解釈と比較すると難解である。しかし、難解な事柄を難解なまま提示する大井の解釈に書く意味がないとは思わない。ここでの大井の解釈は難解であることの必然性を内包している。それは浜田のテクストが内在するコードに忠実に読みを展開したときの難解さである。(引用 前掲)

 江田の論は筋が通っているが、その例証として挙げられている大井の文章については、私は全く難解だとは思わない。内容は確かに抽象的であるが、文章自体は明晰であり、「難解な事柄を難解なまま提示する」という江田の説明は当たらない。むしろ「難解な事柄であっても理解の届く言葉にすることができる」という例証になってしまっている。江田の文章と大井の文章は違う。
 さらに江田は前引用部分に続いてこう主張する。

 今さら言うまでもないだろう。評論を書く意味とは限りなくテクストに近づくことであり、そのための難解さを否定したのでは批評は成立し得ない。誤解を恐れずに言う。批評は読者のために、その立場に立って書かれるものではなく、あくまでもテクストのために書かれるものである。批評とはテクストと評者との対話である。読者は偶然にすぎない。(引用 同)

 つまり批評とは、評者とテクストとの対話であって、読者に分かりやすく書く事を優先すべきではない、というのである。
 以上が、私の理解した江田の論の要約である。さらに私の疑問点を続ける。
 「扱う内容が難解であれば文章も難解にならざるを得ない」場合があるとして、さて、「江田の文章の難解さの理由にはこの説明が当てはまるのか」という点はどうだろうか。
 まず、思い出して欲しいのは私が江田の文章について「分かり難い」と言ったのは短歌の私性について述べた文章であり、手強い内容ではあるが、岡井隆を始め多くの歌人が既に開かれた言葉で明晰に説明している事柄についてである。『私は言葉だつた』の中でも、まだ山中智恵子の短歌を分析する前段階の文章であり、「扱う内容が難解であれば」という点に、江田の当該文章は当たらない。それどころか江田の文章は扱っている「私性」という内容を必要以上に難解にしてしまった感さえある。
 文章が難解である、という時、様々な場合があるだろう。内容が難解だから文章も難解になるというのはまだいい方だと思う。内容が難解でなくても、文章を分かり難くする要因はいくらでもある。例えば語彙の問題。難解な批評用語はもちろん、個人が創作した、人口に膾炙していない批評用語を使えば、本人の意図はさておき、文章は分かり難くなるだろう。さらに、文章そのものに難がある場合、例えば、論旨が明確でない、言葉が浮いてしまって何をどういう意味で言っているのか取り難い、論の展開に無理がある、文の構造に問題がある(主述が一致しない、修飾語が多すぎて文意が混乱する等)、などである。忌憚無く言えば、江田の文章の難解さはこうした問題点をいくつか含むゆえだと私は思う。
 今までの考察から、私と江田の文章に対する姿勢が大きく違わない部分もあることが分かった。では、どのあたりが一番違うかというと、誰のための評論か、ではないだろうか。江田は、「批評はテクストのために書かれる(…)。読者は偶然にすぎない」という。だが、その次の回の連載(第138回3.29. http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda138.html)で江田は「私が言っているのは(読者を)意識しないことであり、無視することではない」と述べているので、読者を想定しないということではないのだろう。
 ただ江田は、読者を意識しない、テクストとの対話である、という文学的な意識が強すぎて、自身の文章を振り返る契機を失っているのではないか。私の考えでは、江田浩司の文章が分かり難いのは、難解さを怖れないためではなく、文章の吟味・整理不足であると思う。そして、それは彼の読者意識に起因するものだと考える。
 しかし、それでいいのだろうか?江田は『私は言葉だつた』の後書きでこう書いている。

(…)短歌のリアリティーの在りかを経験的共感に置いている限り、山中の初期テクストに内在するリアリティーは理解し難く、永久に難解なテクストとして敬して遠ざけられる風潮が続くだろう。(…)私が強く思っていたのはただ一つのことだけであった。山中智恵子の初期テクストを過去のものにしてはいけないという思いであった。(…)                     『私は言葉だつた』「おわりに」より

 山中智恵子の短歌が「理解し難い」ものとして「敬して遠ざけられる」現状に対しての江田自身の回答がこの評論集だとしたら、江田は何としても山中の短歌が読者によりよく理解されるように書く必要があったのではないか。江田の文章が難解で読者を遠ざけてしまうものであった場合、まずこの評論集を出した意図が失われてしまうのではないか。
 私自身の評論を書く目的は「(自分と)読者が短歌をより深く理解するため」ではないかと思っている。そのため、私は読者にとって「分かり難い」評論は肯定できない。ただ、複雑な事象をあえて単純化して「分かり易く」提示するようなやり方には賛成しない。出来る限り筋道を通 した形で、理解を深めることを追求しているつもりである。もし、私の評論が分かり難かったら、それは内容が難解だからではない。単に私の力不足のためである。
 最後に、松村由利子の先週の週刊時評(3月29日「批評とは何か」)について少し意見を述べておく。松村は、私が山田消児と江田浩司の文章を適切に比較していないと批判しているが、私はどちらの文章も、私性や一人称について述べたものを挙げた。山中智恵子に対する分析が江田の論の主要な部分であるが、そこを取り上げては山田との比較は出来ないからだ。二人の文章をもう一度比べて読んで欲しい。松村は江田のアプローチを非常に高く買っているのだが、江田の文章の文意が、例えば当該部分について、細部まで取れているのかどうか、聞いてみたいと思う。
 松村のこの時評は、全般的に私の意見に対して否定的だが、最後に「私自身はずっと、分かりやすい文章を心がけてきた。それはなぜか、と問われると戸惑う部分もある」と述べているように、松村自身は読者を意識して書いているのではないかと思われる。さらに、松村は「短歌の評論は、誰に向けて何のために書くのか」という問いを自身に課しているが、評論を書く者は誰しもこの問いを意識せざるを得ないのではないだろうか。


川本千栄さんの新しいホームページ「鮫と猫の部屋」ができました。

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