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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



評論に求めること
text 川本千栄

 山田消児『短歌が人を騙すとき』(彩流社、2010年1月)はとても面 白い評論集だった。主題意識のかなり強い一冊で、この本の主軸を成しているものは短歌の「私」と虚構の問題である。構成もそれに沿ってまとめられ、山田の主張が明確な形で読者に伝わってくる一冊となっている。
 私が特に面白いと思ったのは「短歌は人を騙すか」と「事実は語る」の二つの論である。その二つで山田は、渡辺直己の短歌と、それを論じた奥村晃作の『戦争の歌』について述べている。日中戦争時、中国戦線における将校であった渡辺直己の戦地詠は、「アララギ」誌上で大評判になったのだが、彼の歌は実体験を詠ったものばかりではなかった。渡辺が当時の読者や選者であった土屋文明にそれを実体験だと思い込ませた事を、奥村晃作は自分の論の中で「いけないこと」と批判している。山田はそれを取り上げて次のように書く。

…渡辺直己の短歌作品において、作中の「われ」は作者である渡辺直己その人である。一首の主体が一人称でない場合でも、その場面 を見る者として作者渡辺たる「われ」の存在が前提されている。ただし、作中の「われ」のふるまいは必ずしも作者渡辺の実体験とは一致しない。彼は実在の人物である彼自身を主人公とし、実際に彼が置かれている状況…を舞台背景として、ドキュメンタリー・タッチのフィクションを描いたのである。…渡辺直己のようなやり方は、意識的にであれ無意識的にであれ、多くの短歌作者が実践しているのではないかと思われる。一人称の文学であればこそ、短歌は人を騙す。                        「短歌は人を騙すか」より

 山田は、奥村晃作が渡辺直己を批判するのに使った「騙す」という言葉を、むしろ肯定的に使って、奥村に異を唱えている。「事実は語る」でも同じテーマを扱っており、ここでも論旨は明快である。すなわち、一人称の文学である短歌では、作中主体と作者が同一と思われやすい事を逆手にとり、自分の実体験とも取れる虚構を作品内に滑り込ませることができる。それは作歌態度として問題無いばかりでなく、むしろ文学としての短歌の可能性を広げるものとしてプラスとなる、というものである。
 山田の文学観には異論もあるだろう。柴田典昭は「短歌現代」3月号の時評で〈「事実」べったりの「私」から、「虚構」や「演出」を経た「私」への転換。そこには歌人としての、創作者としてのプロ意識があり、「自由」がある。…それだけが求めるべき「自由」なのであろうか。〉と疑義を呈している。
 私としては、この評論集を通じて述べられる「私」の捉え方に大いに刺激を受けた。山田の引いた「私」の補助線によって、今まで私が掴みかねていた何人かの作者の歌が腑に落ちた。ただし、虚構に関しては、あまり極端なものには、山田のように肯定的になれない。
 このように、山田の評論は論点が明確に分かるため、同意も反論もしやすい。おそらくこれは、山田の文章が非常に分かりやすいからだろう。これは小さなことではない。比較として、去年出た江田浩司の評論集『私は言葉だった』(北冬社)を見てみたい。江田は山中智恵子の初期短歌についてこの一冊を通 じて考察している。労作であり、山中短歌の読みに大きな示唆を与えるものであるのだろうが、私は残念ながら江田の文章をうまく理解することができなかった。

…短歌が「私性」の文学である以上、一首の中の言葉としての一人称は特別 な存在として特権的な位置を与えられている。一人称の「われ」を核とした言葉の階層化が、一首の中で行われているのである。つまり、一人称を中心に求心的に言葉は構成される。一人称が短歌という詩型の中で言葉のヒエラルキーの頂点に立つとき、統一的な安定したイメージを提供することができる。…また、一人称が直接「他者」を指すものであろうと、言葉のヒエラルキーは成立する。さらに、一人称そのものの「像」にカオスを含んでいる場合にも、一定の「保留」は必要であるが、言葉の階層化は行われているだろう。…

 同じく私性や一人称について述べている部分であるが、二人の文章の分かりやすさには大きな違いがある。江田のこの文章を読んで、果 たしてどれぐらいの人が、何の事を言っているのか理解できるのだろうか。一人称が「特権的な位 置を与えられている」とは、「言葉のヒエラルキーの頂点に立つ」とは、何を指しているのか。もし分かりやすく言い換えられるなら、言い換えて文章を書いて欲しい。
 山田の論に対しては「ここはいいが、ここは同意できない」と言えるが、江田の論に対しては同意するもしないも何も言えない。たまたま手元にあるため江田の文を例に引いたが、実はこうした分かり難い文は歌壇に蔓延しているのではないか。そこには、分かり難い文を高尚な文と勘違いしてありがたがる風潮も、読者側の問題としてあるのかも知れない。
 難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない。難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示してこそ評論を書く意味がある。分かりやすい文章は、書くのが簡単なように見えるが、実は全く逆で、書く側に多くのことを要請するのだ。だからこそ、読者の側もそれを読んで、今まで理解出来なかったことが理解出来るという、読む喜びを持つのではないだろうか。


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