「女歌」を超えて
text 松村由利子
角川の月刊「短歌」に連載中の共同研究「前衛短歌とは何だったのか」の二月号は、大辻隆弘による「試金石としての近藤芳美」である。そこに、中城ふみ子の登場に対する近藤の冷やかさ、中城に代表される身体表現への強い抵抗感が書かれていて興味深かった。リベラルな印象のある近藤にして、女性の歌についてこんなふうに書いたことがあったのかと面
白く思ったのだ。
近藤は、中城のみならず葛原妙子ら女性歌人の当時の詠いぶりについて、「彼女らはこの生理的内部衝迫に過信とも云ふべき信頼をいだき、堂々と陣頭に立てて来る、少なくともそれに羞恥をいだき、それに制御をいだく事を知らず、否、あへてさうしない事を競つて居る如くに見える」(「短歌」昭和二十九年十二月)と述べる。
大辻は、葛原がこの発言に対して「感性的な表現であるといふ事が、即ち無思想であり、知性的ではないといふ事とは、一応別
である」と反論し、「いのちの過信」というよりも、生に密着した原始性を基盤とする「いのちの自然」と言い換えるべきだと提言していることに着目し、この近藤の批判が葛原に「原不安」を気づかせるきっかけになったと見る。
戦後まもない頃の女性歌人が、新しい試みとして積極的に自らを動物や自然と重ねたり、肉体の感覚を拡大したりしたことについては、川野里子が『幻想の重量
−葛原妙子と戦後短歌−』(本阿弥書店)の「身体表現と戦後」の章で、緻密に分析している。自らの感覚を手がかりに既成の表現を超えようとしたのは、中城や葛原のみならず、森岡貞香や生方たつゑ、阿部静枝らといった歌人たちだった。大辻は、当時の中堅であった女性歌人について、「中城の偽悪的な歌いぶりのなかに、女性の自我の叫びを感じとり、その大胆さに羨望の眼差しを向けたのである」と書いているが、「羨望」というよりも共感に近かったのではないかと思う。
中城の作品は、今もドラマ性や肉体感覚を強調した点が注目されがちだ。しかし、川野は、葛原が「中城の裡に根源的な孤独との闘いを読み、こうした孤独との対面
が日本の文学に不可欠であることを意識していたのではなかっただろうか」と見る。中城の身体表現の奥に隠された本質を、葛原が見ていたという分析は実に鋭い。
ここで思い出すのが、一九四九(昭和二十四)年に創刊された「女人短歌」である。創刊まもない「女人短歌」に掲載された作品に対して、「難解」「観念的」という批判があったことを、佐伯裕子は指摘している(「歌壇」二〇〇七年五月号)。例えば、木村捨録は女性歌人の漢語を多用した硬質な表現に対し、こう述べたという。
月々それらの雑誌に掲げられる作品の多数が、女性の裡にある特質を生かしたものとしてどれほど礼賛されてよいか、といふ段になると、検討せねばならない問題が残されるであらう。例へばその一つとして女流作品が近年目立つて知的な素材を求め、さうしたもののみを新鮮としてゐる傾向のごときはどんなものであらうか。
「アララギ」(一九五一年四月号)
木村は、知が勝った詠い方は、女性にふさわしくないと言うのだ。同時期に、釈迢空は「女人の歌を閉塞したもの」の中で、女性はアララギの「現実主義」に惑わされず、女性文学本来の浪漫性を取り戻し、自らを解放すべきだと主張していた。佐伯は迢空の論も踏まえ、女性歌人たちにとって「虚構や知的素材、漢語を駆使しなければ表せない複雑な時代感情が満ちてきたことは、迢空の提唱とも離れたところの差し迫った現実だった」と見る。
中城が「女人短歌」の会員になったのは、ちょうど木村の文章が発表された年の十月である。そして一九五四年四月、「乳房喪失」で「短歌研究」の第一回新人五十首詠で特選となる。その年の十二月、近藤芳美が冒頭の批判を発表し、「もつと清潔な知性に満ち」た女性の短歌が望ましい、と苦言を呈したのだ。
この短い期間で、女性たちの作風ががらりと変わったとも思えない。女性歌人たちは、ただ純粋に自分の新しい歌を探ろうと、「虚構や知的素材、漢語」を採り入れつつ、身体感覚を研ぎ澄ませ、戦後や社会、家庭を根底から捉え直そうとしたに違いない。人によって、その試みの方向が異なったのは当然だ。今から考えると、それを男性歌人たちが好き勝手に評していたようにしか見えない。
先月、広坂早苗がこの時評で、「『女歌』と括る意味」と題し、女性の歌をテーマや手法で男性の歌と区別
するのは、今や意味がなくなったのではないかと書いている。全く同感である。戦後短歌を問い直すときでさえ、「女歌」だけにとらわれるのは何か窮屈な気がしてならない。近藤芳美の批判を葛原妙子が逆手にとって自らの方法論の確立に生かしたこと、また、それは塚本邦雄にとっても同様だったとする大辻の捉え方は新鮮だ。女歌批判をさらりと俯瞰したまなざしが小気味いいと思った。
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