自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内

週刊時評

大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ

好評既刊一覧

既刊書籍一覧

短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー

自費出版のご案内

短歌界リンク

掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



短歌のゆたかさ
text 広坂早苗

 年が改まり、2010年となった。塚本邦雄の『水葬物語』上梓が1951年だから、前衛短歌運動が始まってから半世紀以上を経たことになる。運動の渦中には見えなかったものが見え、相対化できるだけの時間が流れたのだろう。
 角川「短歌」1月号の、佐佐木幸綱・三枝昂之・永田和宏の三人による座談会「前衛短歌とは何だったのか」は、私も面 白く読んだ。前衛短歌運動の全体像をとらえ、総括し、その功罪はどのように継承されたのか、現在の地点から問い直してみることによって、現代短歌の抱える問題点が見えてくることになるだろうと期待している。また、女性歌人6人による「今、読み直す戦後短歌」のシンポジウムも、第二回目は「『第二芸術論』の時代」がテーマだという。前衛短歌は、第二芸術論への歌人側からの回答だと言われる。論点の重なる部分があるかもしれず、二つの共同研究の進行が楽しみである。
 前回の週刊時評で、「短歌」1月号の座談会で提出された問題点の主なものが取り上げられていたが、それ以外にも興味深い指摘がいくつかあった。私が興味を持ったのは、前衛短歌と老年の問題、そして前衛短歌が影響を及ぼすことのできなかった、新聞歌壇や雑誌の投稿者などの存在についてである。

永田 歌は常に時間とともに、あるんだという意識、その意識が前衛短歌には希薄だったように思う。つまり逆に言うと前衛短歌は間違いなく青年の運動であったということです。
佐佐木 成熟、円熟ということが前衛短歌運動の意識の中に全くなかった。だから今でも、「老年の短歌」は近代短歌の延長上で考え、作り、論じている。

佐佐木 現在のマジョリティにおける短歌のイメージって、やはり啄木なんだよ。現代の人たちが思っている短歌は、茂吉ではないんだ。
永田 茂吉の方が難しいです。
佐佐木 ただ短歌を読むとか、短歌を真似して作るとかいうときのベースは啄木なんだ。そこまでは前衛短歌は変えられなかったと思う。

 佐佐木や永田の発言にあるように、前衛短歌は青春の短歌であり、人生の時間軸に沿って長く歌い続けていく歌人にとって、前衛短歌の影響を受けるのは若い一時期に限られる、という指摘は興味深かった。前衛短歌運動の終焉がはっきりとわからないうちに、前衛短歌の影響を強く受けた永田や三枝の世代がその影響から脱していったことが、年齢の問題として考えられるからだ。前衛短歌運動が長く続かなかったことも、同じ理由で説明できるのではないか。つまり、思想性、批評性、表現技巧を重視し、「私性」を遠ざける前衛短歌のあり方が、生涯の長い時間をかけて歌い続ける歌人のスタイルに合わなかったのではないか、と考えられるのである。また、佐佐木の言う「近代短歌の延長上」の「老年の短歌」および啄木をベースとする「現在のマジョリティ」(新聞歌壇や雑誌、各種短歌大会への投稿者)の作品は、前衛短歌を通 過していないわけだが、「スーパーエリートの詩型」(三枝)である前衛短歌を経験した歌人の作品と比較していくことにより、前衛短歌がどのように近代短歌を否定し、何を積み上げたのかが見えてくると思う。さらに、近代帰りしている感のある現在の短歌が、本当に近代短歌と地続きなのかそうでないのか、検証することにもつながっていくだろう。今後の展開に注目したいと思う。

 ところで、ちょうど10年前の1月、永井陽子が夭逝した。永井の作品は、

べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊
                      『樟の木の歌』
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
                      『モーツァルトの電話帳』

に代表されるように、意味性を限りなく薄め、音韻のこころよさを最大限に引き出す、軽やかで楽しい歌であった。作者・永井陽子の日常がほとんど作品に反映されないという点が、同年代の他の女性歌人と大きく違っていたが、そこには前衛短歌の「反私性」が意識されていたのかもしれない。
 しかし、永井の遺歌集となった『小さなヴァイオリンが欲しくて』には、永井の実生活を思わせる作品が何首も見える。永井自身が編集すれば捨ててしまっただろう私性の濃い作品が、遺歌集ゆえに残ってしまったという事情もあるのだろうが、実在の永井陽子を軽やかに抜け出して伸び伸びと歌う「表」の歌と、日常の中に涙し嘆息を漏らす「裏」の歌が混在するこの歌集を読むと、どちらか一方ではなく、この両方を抱え込めることが短歌のゆたかさなのではないか、と思うのである。

むかう側にはれんげ畑がひろごると死にゆく母に言ひたる嘘も
                      『小さなヴァイオリンが欲しくて』
ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ
ささやかに生きたあかしの歌一首弥生の街に残さむとする


Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.