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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



共同研究による短歌史再考
text 川本千栄

 あけましておめでとうございます。2010年の年が明けた。去年まではゼロ年代という言い方がよくされたが、それで言うと、今年から10年代が始まった。何でもかんでも年代で切って考えるのは良くないとは思うのだが、文化は時代の影響を受けずにはいられないものだ。10年ごとの区切りというのも、物事を史的に考える時に、大雑把ではあるが一つの指標となる。
 最近、短歌史を見直そうという動きが感じられる。この週刊時評でも触れたが、2009年7月11日に「今、読み直す戦後短歌」というシンポジウムが行われ、秋山佐和子・今井恵子・川野里子・佐伯裕子・西村美佐子・花山多佳子の6人が戦後短歌史を問い直す試みを行った。2月11日には同シンポの第二回があり、第二芸術論の時代に焦点を当てるとのことである。大いに楽しみだ。
 角川『短歌』では「前衛短歌とは何だったのか」という共同研究の連載が始まった。1月号はその第一回で、連載の書き手である佐佐木幸綱・三枝昂之・永田和宏の三人が座談会をしている。この座談会を読むといやがうえにも連載への期待が高まる。

佐佐木 現在の若い人たちは、短歌にかかわったときから前衛短歌は既成の事実としてあったので、何となくその流れのなかで歌を作ってきているわけだが、その流れの源流、成り立ちみたいなことをこの時点から洗いなおしてみようということが基本的な路線だと思います。…

 座談会の初めの部分で、佐佐木がこのように共同研究の企画意図を述べている。前衛短歌と伴走した世代の一人である佐佐木、前衛短歌の影響を強く受けた世代である永田と三枝、この三人だからこその視点と掘り下げが期待できる。単に前衛短歌の成り立ちや史的意義だけでなく、同時代人ならではの臨場感あふれる現場の再生もあるだろう。
 初回の座談会の中では、多くの論点が提出されている。前衛歌人とはだれを言うのか、「第二芸術論」のプレッシャー、前衛短歌が取り残したもの、などよく問題にされているものの他にも、前衛短歌がなぜあんなに評価/否定されたのか(三枝)、表現論として考えるのか思想として考えるのか(永田)、など興味をそそられるものが多数挙げられていた。その中でも特に面 白いと思ったのは、受け手として、前衛短歌の主張の読み取り間違いがあったのではないか、という指摘である。

永田 拡大解釈をして、これもだめだ、あれもだめだというかたちで反前衛狩りみたいなものをしてしまった、その当時の歌壇というものがあった。塚本邦雄がリアリティの深化は大事だ、リアリティの追求が本当はアバンギャルドの真髄なんだと言っているところをすっ飛ばして、日常はだめだと言っているとか。われわれは近代はだめだともう刷り込まれているが、寺山が言っているのはそうじゃない。彼がいちばん言いたかったのは、自己相対化ができないのがだめなんだという、そこだと思う。…

 永田の発言によると、近代歌人、特に「アララギ」の歌人たちは、自分の生活を真っすぐうたえばそれが歌だという信仰を持っていたが、それも本当は「アララギ」のテーゼからははずれている。前衛歌人が近代を否定したのは、その信仰によって自己相対化の契機が全く見えない、という部分ではないか、という事である。
 これは現在だからこそ見えてくる点であろう。この短歌時評でも度々問題として挙げた「リアル」や「実感」の問題とも絡んでくるところなので、そうした読み取り間違いを、ぜひ詳しく解きほぐして欲しいと思う。
 また、近現代短歌の境目はどこか、ということについて、三枝は次のように語っている。

三枝 前衛短歌と現代短歌の境界は実はなし崩しで、本当言うと前衛短歌が現代短歌の中心にあるというニュアンスでしょう。前衛をどういうふうなかたちで現代短歌と近代短歌の間に置くかというのも曖昧なんだ。だから、そういう用語の安定化みたいなものも必要じゃないかな。

 この発言に立ち止まったのは、今から約10年前の1999年12月発行の『岩波現代短歌辞典』の記述を思い出したからである。その「近代短歌と現代短歌」という項で、三枝は次のように書いているのだ。

 …「自我の詩」は近代短歌の成熟の中で、ことさら強調するのが相応しくないほど、歌人たちに根付いて行った。それを「自己表現としての短歌」と言い直しておけば、これは近代短歌だけの特徴ではない。…見えて来るのは、前衛短歌という思想表現を呑み込んで、自己表現を豊かに太らせる短歌百年の大きな流れである。そこには近代短歌と現代短歌の違いはない。

 三枝の言うように、「自己表現としての短歌」という観点では近代短歌と現代短歌に違いが無いとするなら、その中にどのように前衛短歌が位 置づけられるのか。かつて前衛短歌全盛の時代には、現代短歌イコール前衛短歌であり、近代短歌との差異は明らかであった。しかし、現代短歌の最先端に前衛短歌が位 置しない現在時点において、前衛短歌とは何かを問い直すことは、即ち現代短歌とは何かを問い直すことにも繋がるだろう。
 こうした全てのことをまとめて、何よりもこの企画のいいところは共同研究である、という点である。これはかつて同誌に連載され、後に一冊にまとめられた「昭和短歌の再検討」と同じである。共同研究にすることによって、お互いの文章やその思想から新たな論点を得たり、間違いや足りない点があればそれを補うことができる。先に挙げた、女性5人による戦後短歌の見直しと共通 する考え方である。
 個人的なことになるが、私自身も前衛短歌を全く体験していない世代だ。しかし、今から、十年ほど前、自分が短歌を始めた頃、自分より若い世代で前衛短歌の影響を強く受けていると言う歌人がたくさんいたことに結構驚いた。その強い人気を持つ秘密をぜひ知りたいと思うのである。


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