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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



歌に出会う場所
text 広坂早苗

 最近の若い歌人は、いつ、どこで、短歌に出会ったのだろうか。そして未来の若手歌人は、いつ、どのようにして短歌に出会うのだろうか。
 「短歌研究」11月号の特集「中高生短歌の現在形」を読んで、意外に思ったことがあった。現在30代・40代の森山良太、嵯峨直樹、田中拓也らが短歌を作り始めたのが高校時代であり、きっかけとなったのが学校の授業や課外活動(文芸部など)だったということだ。昨今増えてきた中高生対象の短詩型文学のコンクールのうち、最も有名かつ歴史の長いものが東洋大学主催の「現代学生百人一首」(1987年開始)だと思うが、田中拓也はその入賞経験者だという。そう言えば、以前に飯田有子の高校時代の歌を、勉誠新書の『短歌青春』の中に発見し、驚いたこともあった(『短歌青春』は「現代学生百人一首」の入選作品を書籍化したものである)。また嵯峨直樹は、全国高等学校文芸コンクール(文芸部のインターハイのようなもの)入賞がきっかけになって、短歌に高い関心を持つようになったというが、2008年短歌研究新人賞受賞者の田口綾子(1986年生まれ)も同様らしい。
 こうした中高生向けの短歌等のコンクールは、授業で一斉に作品を作り(作らされ)、担当教諭が玉 石混淆のまま応募先に送付し、たまたま入賞した本人はただびっくりするだけという場合も多い。文芸部員たちはもう少し意識的に取り組んでいると思うが、短歌をよく知っている指導者や相互批評のできる仲間に巡り会うことは難しく、作歌意欲の持続が困難だったり、自己満足の域を出ない作歌活動に飽きてしまったりする場合の方がやはり多い。だから歌人として活躍する嵯峨や田中の歌との出会いが、高校時代の授業や部活だったという事実に、ちょっとびっくりしたのだ。(私は、早熟な文学少年が、授業や教師そっちのけで啄木や寺山に耽溺して……というような「出会い」を勝手に想像していた)
 しかし考えてみれば、短歌に関心を持たない者が日常生活で短歌に出会うことなど滅多になく、教科書を使った授業はその唯一にして公平な機会なのかもしれない。私は高校の国語教諭だが、自分の短歌の授業をきっかけに、継続的に実作に励む生徒が出てくるだろうと思ったことはない。短歌の授業は生徒の反応も良く、創作にも積極的に取り組んでくれるのだが、それは目新しいからに過ぎず、関心が持続するには授業以外の場所で再び短歌に出会い、自ら選び取ることが必要だと思っていたからだ。しかし、将来の歌人が歌と出会う貴重な場所を提供しているのかもしれないと思うと嬉しく、同時に責任も感じる。

 清水麻利子の『ジュニア短歌』(短歌新聞社)は、勤務先の中高一貫校や地域(市川市)で、三十年に渡り中高生に「教育短歌」の指導を続けてきた著者の実践報告である。現代学生百人一首、市川市ジュニア短歌祭、全日本ジュニア短歌大会などのコンクールに応募した作品とその講評を中心にまとめられているが、特筆すべき点は、同じ生徒に対して、数年に渡って継続的な創作・鑑賞の指導を行っていることだろう。国語の授業における表現指導と学校行事を組み合わせ、歌舞伎鑑賞会等の文化的行事、林間学校や修学旅行などの宿泊行事の機会を捉えて、その体験を短文と短歌で表現させ、全員で鑑賞し、卒業歌文集にまとめる。この一連の活動を、学年全体、あるいは全校的に、複数年に渡って行うのである。このように継続した短歌の創作、鑑賞、批評の積み重ねの上に、各種コンクールにおける多数の入選がある。
 著者自身は、「国語表現」の授業における短歌指導を始めた時点では、実作者ではなかったらしい(平成14年市川市民短歌会に入会と「著者略歴」にある)。学外の専門家に助言を仰ぎながら、国語科の教員たちと協力し合い、指導してきたことが「あとがき」に書かれている。著者の考える「教育短歌」とは、生徒たちの「真にものを観る目」を養い、「豊かな言葉のセンス」を磨くことだと言うが、確実にその目標が達成されていく様が本書から読み取れる。実作者でなくとも(国語の教師が小説・詩・短歌・俳句すべての実作者になるのは不可能だろう)、関心さえあれば、生徒たちを創作の入口へ連れて行くことは可能なのだと、本書は主張しているようだ。

 先の「短歌研究」の特集では、高校時代に国語教諭・川涯利雄(現歌誌「華」代表)の指導を受け、短歌の実作に励んだという森山が、川涯の転出と共に短歌研究会が消滅したことを挙げ、「教師たちの意識改革を行わなければ、裾野は広がっていかないだろう。将来にわたる短歌人口の確保のためには、『教師のための短歌講座』を開催することも、今後は必要であろう」と述べている。森山が書いているように、教育現場には「大学入試に出ないから、短歌・俳句の学習は不要」という声が依然としてあり(入試に出ないから小説は不要、授業では評論しか読まない、と言う進学校教諭さえいるのだ)、短歌教育に追い風は吹かないのだが、中学・高校の授業や課外活動が、生徒と短歌の、つまり若い知性感性と伝統詩型の、大切な出会いの場になっているとの認識をまず教師が持つこと、そして教師自身が幅広い興味・関心を持つことの大切さを、改めて感じる(今や没になりかけている教員免許更新制度だが、「教師のための短歌講座」「伝統詩型の理解」などを必修科目にしたらどうだろうか)。そしてこのような状況下だからこそ、文芸部を率いて活発な活動を行っている田中のような存在が、大変頼もしく思われるのだ。


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