批評眼の冴え
text 広坂早苗
藤島秀憲の第一歌集『二丁目通信』が、最近読んだ新刊歌集の中では格別
に面白かった。藤島は一昨年の短歌研究評論賞の受賞者で、「短歌研究」に目配りの利いた時評を連載しているが、短歌作品にも冴えた批評眼が働き、独特の世界を創り出している。
老婆ふたり暮らす家より泣き声と笑い声どっと起こる春宵
幼稚園バスを待ってる母ふたり今日は三メートルを離れて
右頬に五センチ四方の絆創膏を貼れる獣医と外科にて会えり
歌集には、こうした多くの〈他者〉を歌った作品がある。〈われ〉でも、〈われ〉と密接につながる者(家族など)でもなく、離れた位
置にある他者が数多く登場し、彼らの存在が歌集のアクセントにもなっている。一首目の、ちぐはぐなテンポを何とか合わせて共存している老婆たちの不思議な暮らし。二首目の若い母たちの、あからさまな不仲の表現。〈われ〉は、それぞれ事情を抱えた彼らを少し離れた位
置から見ているのだが、バイアスのかからないまっすぐな視線が他者を裁断する様は面
白い。〈われ〉への執着から解かれ、〈われ〉とゆるやかにつながる人々を描くことが、歌集の世界に膨らみをもたらし、風通
しを良くしていると感じる。
トイレットペーパー十二個ぶらさげてわれ漱石の晩年を行く
話しつつ広がる俺の両の手よ一メートルの真鯛になりぬ
多数派になりたきわれは向けられるマイクに「辞めるべき」と答える
〈われ〉の登場する作品も、自己愛に傾くことがなく常に批評的である。四十代の終わりを生きる〈われ〉の、漱石とは比べようのない格好悪さも、話しているうちに誇張しすぎてしまう軽薄さも、多数派になりたい俗っぽさも、一切隠すことがない。読み手としては、その背後にある冷厳な現実を思いながらも、提示された〈われ〉の姿に苦笑してしまう。感傷や湿っぽさがなく、冷静な批評の働いた歌に漂うユーモアが、読者を笑いに誘うのである。
こうした批評の力がとりわけ重要に思われたのが、介護の歌である。藤島の歌集は、「介護歌集」と言ってもよいほど老親の介護を歌った作品が多いが、介護者の苦痛や悲嘆をストレートに歌った作品はない。
乱暴に、たとえば土管を持ち上げるように庭から父を抱き上ぐ
客観視できぬ近さに父がいて入れ歯外して舐めはじめたり
日頃より震度2弱で揺れている父 地震には鈍感力あり
介護の現実は過酷で余裕もないものだろうが、作品は距離を置いて老父を描いている。〈われ〉はここでも背後にいて、介護される老父を見ている。「土管を持ち上げるように」は怒りの表現だと思うが、〈われ〉の怒りより、土管のように持ち上げられる父の体が目に浮かび、迫力を感じる。外した入れ歯を舐める老父は、近くではとても「客観視」できない様ながら、離れてみれば可笑しい一人の老人である。「鈍感力」も同様。悲嘆の淵に〈われ〉を置かず、一歩引いて哀れに可笑しい老父の現実を見据えるには、相当の意志の力が必要になると思うのだが、これらの作品にはそうした意志力・批評力が働いている。読者は老父の姿を〈われ〉の目線で見、いろいろなディテイルと共に、生々しい介護の日々を直視することになる。作者の批評眼の冴えが、こうした力を作品にもたらしたのだと言えよう。
老親や配偶者の介護は現代的なテーマであり、思い浮かぶ他の歌人の作品も多い。
春の野に千のこぶしの花咲けどいまだ整はぬ妻の言語野
桑原正紀『妻へ。千年待たむ』
梅の木より桜の花の散るやうな不思議な言葉ときをりこぼす
水に文字書くごとくしてたちまちに消えさる妻の新しき記憶
病室に何人ゐるかと聞く母が死んでるみたいと声ひそめ言ふ
柳 宣宏『施無畏』
食ひ終へて食ひ飽かぬとぞわが母のわれを憎しむ目に力あり
「あたしにはひどい息子があつたんだ」母さん、妻にむかつて言ふな
妻を介護する桑原の、詩情にあふれた相聞歌のような歌、老母を介護する柳のどこかユーモラスな歌。対象も、対象との関わり方もそれぞれに違うが、「対象を描く」という意識が働いている点は、藤島も含めた三者に共通
する。それゆえに、苦悩や悲哀におぼれない、訴求力を持った作品となっているのだ。対象から少し離れて描いてみることの大切さを、改めて実感した次第である。
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