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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



現代短歌評論賞受賞作・候補作を読む
text 川本千栄

 『短歌研究』10月号に「第二十七回現代短歌評論賞」が発表された。この賞は毎年、評論の課題が設定されており、今年度の課題は「自然と短歌―近現代短歌は自然とどのように向きあってきたのかその軌跡と現状分析を軸に」である。これはかなり手強い課題だと思う。自然というと実に幅が広いし、論としての焦点が絞りにくい。こうした課題の場合、「自然」を大づかみに捉えるのではなく何かに的を絞って書くのが書きやすい。実際、受賞作・候補作の一覧を見てみると、それら7編の中で実に3編が「月」に焦点を絞ったものだった。ちなみに受賞作は「樹木」に焦点を絞ったものである。
 受賞者山田航(26)は「かばん」に所属、「アークの会」「pool」に参加している。受賞評論は、「樹木を詠むという思想」。このタイトルには、樹木を詠むということが一つの思想的態度なのだ、という論者の視点が提示されている。
 山田の論を概括すると次のようになる。前近代の日本においては自然は神の領域にあり、人間は自然の一部でしかなかったが、近代においては、デカルト的主客二元論によって、自然は人間と切り離された他者として捉えられるようになった、その意味で「自然」というのはきわめて近代的な概念である、というのが序論で、ここで前田夕暮、前川佐美雄、前登志夫が挙げられている。本論では渡辺松男、大口玲子、平井弘、大谷雅彦がどのように樹木を詠んだかが論じられている。本論を通 して、自然への畏敬・畏怖を根底に持ちながら、人間は樹木に「人間的なもの」を見続けてきた、というのが山田の主張である。結論部分の

 正岡子規の近代短歌改革以降、短歌とは〈私〉を中心に据えて詠まれるものになり、自然とは〈私〉の前に立ちはだかる巨大な他者のひとつとなった。そして近代思想によって「自然詠」という領域が発見され、樹木に近代的な意味を付与する歌い方があらわれたのである。現代において自然を詠むということはそれ自体が近代的思想の発露になっている。樹木とはまさにそのメタファーの突端となっているのである。

というまとめは色々な問題提起を含んでいて興味深かった。確かに、近代において「自然詠」という領域が発見されたという指摘は重要であり、近現代短歌を論じる時にもっと強く意識されてもいいことだと思う。私たちはそれこそごく自然に「自然」という言葉を使っているが、前近代にはどのような概念で自然を把握していたのか、近現代人は自然と自己をどのような位 置付けで捉えて詠ってきたか、自然主義や花鳥風月なども含めて短歌における自然とはそもそも何なのか、などの問題が、山田の論文を読み進むにつれて、改めて頭に浮かんだ。これらはこの週刊時評の前担当者である大辻隆弘と吉川宏志が激論を戦わせた問題でもある。
 ただ、西欧的な二元論が果たして日本の文学、特に短歌に適用し切れるのか、論者はそれを自明のものとし過ぎているのではないか、という点は疑問に思った。選考委員の一人森井マスミが「日本人の伝統として自然を写 したときに、自然に一体化してしまうような感性について、論じられていない。西欧的な自然主義や散文とは違う、短歌における自然というものの独自性ですね。その部分への言及がない。」と述べていたのに同感である。
 それらの疑問点は置いても、論の立て方や運び方が上手く、また読んだ者を思索に誘う、好評論であった。また、既に発表されていることだが、山田航は今年度の角川短歌賞も受賞したとのことである。作品の載った号はまだ発売されていないが、読むのが楽しみだ。久々に論作両方の力量 を併せ持った期待の新人の出現である。
 受賞作も面白かったが、候補作にも心惹かれるものがあった。一つは助野貴美子がバチェラー八重子について論じた文である。「八重子にとっては、アイヌ人として存在の基盤そのものの自然と〈われ〉との距離は見られない」という一文に立ち止まった。山田の論は自然と人間を二分法で捉える視点であったが、助野の論じるバチェラー八重子は自然と〈われ〉との間に距離が無いのだという。これは八重子がアイヌであったゆえか、あるいはアイヌ以外の人々にもそうした歌があったのか、などもっとこの点を突き詰めたものを読みたいと思った。
 もう一つは「月を愛した少女(おとめ)たち」である。比嘉美織は近代少女雑誌投稿短歌という非常に特殊な分野を論じている。二十世紀前半に出された少女雑誌に、十代二十代の少女たちが投稿した、月を詠んだ歌を時代を追って分析している。この視点、この素材、どれをとっても独自性が高く、圧倒的な面 白さがあった。乙女たちが月を見上げて詠んだ歌には古典和歌にも通 じる美意識が感じられるが、また同時に、否応も無い戦争の影や近代的価値観も入り込んでくる。誌面 では抄出でしか読めず、選考委員の座談会では、論として不要な部分や、歌の解説に物足りない部分があったということだが、この個性的な論者に、貴重な資料を駆使した評論を、今後益々多く書いて欲しいと願っている。
 現代短歌評論賞は歌壇唯一の評論の賞である。私は、短歌というジャンルが文学の世界で生き残るためには、適切な評論が不可欠だと思っている。それゆえ、毎年この賞に注目しているし、一層の活性化を望んでいる。


「週刊時評」が一冊へ『対峙と対話 週刊短歌時評06-08』大辻隆弘・吉川宏志共著
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