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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

「週刊時評」が一冊へ『対峙と対話 週刊短歌時評06-08』大辻隆弘・吉川宏志共著



私性の変化について
text 広坂早苗

 「短歌現代」9月号、「歌壇」9月号に続いて、「短歌」10月号の特集「70歳代からの新たな歌い方」も、高齢歌人の短歌に焦点を当てたものだった。「敬老の日」を意識した特集か?とも思ったが、短歌人口の中でかなりの割合を占め、かつ歌壇の牽引車として活躍する人も多い70歳代以上の歌人に注目が集まるのは、必然的なことと言えるのだろう。
 一言に高齢歌人といっても、70歳代、80歳代、90歳代以上を一括りにするのは乱暴すぎるし、同じ70歳代歌人の中に、20歳から作っている人もいれば、60歳で作り始めた人もいるので、これも同列に扱うわけにはいかない。若い頃から歌壇の第一線で活躍し続けてきた歌人(岡井隆や馬場あき子など)の現在を語る論が必要であるのと同時に、60歳代・70歳代の新人について論じることも今後必要となってくるだろう。
 ところで、二週に渡ってこの週刊時評に取り上げられた、小高賢の「老いという短歌のフロンティア」は、私も面 白く読んだ。〈五七五七七に主張とか意味をいままでより盛り込まない。極論すれば、「私はこう思った」「私はこう見た」という地点が放棄されているのではないか。私を制御することもしない。ここに高齢短歌のおもしろさの背景がある〉という、近年の高齢歌人の歌についての積極的な評価を読み、私が思い出したのは窪田空穂の絶詠である。

四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し  『清明の節』
まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つぶればまぶたの重し

 満90歳を目前にして亡くなった空穂が、死の三日前に詠んだ二首である。三枝浩樹は、「成熟という愉しみ−七十代が最前線」〈「短歌」10月号〉で、〈四月七日〉の一首について、〈自他の境がおぼろに感じられる、ただただまばゆい最期の感慨が歌われた〉と評しているが、この絶詠を読むと、小高の言う〈私性の朧化〉という指摘とそのプラス評価に納得がゆく。と同時に、それは近年の高齢歌人のみに特徴的なものではなく、過去の長命の歌人の作品にも見られた(しかし特に発見されなかった)特徴なのではないか、と考える。
 ただし、この二首を作ったとき空穂はすでに死の病床にあり、年齢もまもなく満90歳に達しようとするところだった。小高が〈私性の朧化〉〈私性の軽さ〉を指摘した岡部桂一郎・清水房雄も、90歳代半ばである。年齢だけを根拠に論じられるものではないと思うが、身体の不如意の度合いも、私性の現れ方に関係するのではないか。また、言うまでもなく、批評精神旺盛な作品を作り続けている高齢の歌人も多い。年齢と私性のあり方の関係については、一括りに論じることができないのだと思う。

 ところで、先々週のこの欄で松村由利子が、若い世代の歌の私性の軽さと小高の言う〈高齢歌人の歌における私性の変化〉の共通 性について問題提起をしていたが、それを読んで思い出した論文がある。「短歌往来」4月号の「様式性と機能性」(今井恵子)である。乱暴なまとめ方をすると、旧派和歌から近代短歌への変化、つまり短歌の近代化を、ことばの「様式性」から「機能性」への変化と今井は捉える。「様式性」とは、〈和歌伝統のなかで培われ継承されてきた様式を身につけること〉によって、「しらべ」や〈ヴァナキュラーな日本の言葉の美や味わい〉を大切にすることである。それに対して「機能性」は、〈ことばの運ぶ意味内容に重心が傾き〉、〈意味と意味との作り出す感情的感覚的なあや〉を切り捨てるものである。この「様式性」対「機能性」という図式で見ると、土屋文明の〈吾(わ)がもてる貧しきものの卑(いや)しさを是(こ)の人に見て堪(た)へがたかりき〉と塚本邦雄の〈日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも〉には、「機能性」重視という共通 点が見いだせるという。
 今井は、このような「機能性」は、時代の言葉の持つ位相として避けがたいものだと言う。しかし、「機能性」重視の結果 、作品の〈すみずみまで知の光がとど〉き、〈心の陰影〉がなくなったと指摘する。その例として挙げられているのが、〈あとがきは花束であれおおよそは墓碑に捧げる花束である 加藤治郎〉などであるが、この歌について今井は、読後に残るのは〈「巧く言えてるね」という感想であって、読み手は作品に同化しない〉〈作歌主体が作中主体よりも強く感じられる〉と批評する。
 それに対して、今井が「機能主義から抜け出る新しい可能性」を見るのが、〈彼はいま漢和辞典を引いている メールをもらったので知っている 永井祐〉〈雪の夜(よる)の小学校の校門にしばらく立って家に帰り来(く) 花山周子〉のような若い世代の作品である。今井は、〈どこまで自覚的になされているのかはわからないが〉と断った上で、永井や花山の作品には〈行間に言語化しえない時間や空間の広がり〉があると評価する。それは作歌主体が〈作中主体の内面 を覗き込まず、内面は放置されたまま〉にしてあるからだと言う。
 この内面を放置するという姿勢は、私性の軽さに通ずると思われるが、若い世代のこうした歌によって表現される世界と、高齢者の歌の〈私性の朧化〉によって現出する世界は、やはりよく似ているのではないか。松村が引用した中田有里や今橋愛の作品でそれを説明するのはやや苦しいと思うが、今井の引用する永井や花山の歌ならば、松村の問題提起に対する一つの解答となっているのではないかだろうか。そしてそのような、世代を問わない私性の軽い歌によって、今井の危惧する〈ヴァナキュラーな日本語の駆逐〉すなわち〈短歌の滅亡〉を阻むことが出来るのではないか、と考えたのである。


第43回迢空賞受賞・ 第20回齋藤茂吉短歌文学賞受賞!!
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