「われ」の変容の背景
text 松村由利子
評論を読む快感は、複雑に入り組んだ現実をすっきり読み解く補助線と出合うことである。「短歌現代」九月号が「来るべき短歌」と題した特集を組んでいるが、この中で小高賢の「老いという短歌のフロンティア」がとても面
白い。小高は老いの歌における「私性」が、これまでの短歌史にない独特の境地を描いていると評価しているのだ。老いの歌の真価、また「われ」の今昔というものがくっきりと見えて、刺激的な評論である。
小高は、短歌という詩型がどうしても自己肯定になることを指摘し、その「私性」の強度が作品の強度に直接繋がっている、と見る。そして、短歌史はまさに、この「私性」との長い格闘の時間といってもいいと結論する。「作者=私という構図を壊そうといった試みは何度も話題になった。しかし、いつの間にかまた、作者=私という地点に戻ってゆく。その素朴なまでの強さに克てるほど、多様・多彩
な作品の生まれることはなかった」と小高はいう。
ところが、老いを詠った最近の作品には新しい傾向が見られるという。
やや直感的な印象なのだが、老いの現実は、この作者=私という視点を、どこか内側から食い破っているような気がする。つまり年齢を重ねることによって(身体の不如意からきているのだろう)、しっかりとガードされた「私性」が、ほぐれ、外側に流出する。あるいはせざるを得ない感じがする。
高齢歌人は自分の身体が思うように動かなくなった現実によって、自他の境界をあいまいにせざるを得なくなり、「そこから新鮮な作品世界が現出している」という見方は非常に魅力的だ。老いによって初めて見えてくる世界があるのは確かだろう。
ゆっくりと塩田さんまでつく杖の風船かずら きいろいざぼん
岡部桂一郎『竹叢』
なぜか消えぬ記憶の一つ茂太さん「ラ・フランス僕大好きでね」と
清水房雄『蹌踉途上吟』
小高は岡部作品について、「塩田さん」という家のあたりまでを散歩コースとするらしい「われ」が、いろいろなものを眺める役割しか負っておらず、「杖がひとりで歩いている感じ」があるという。また、清水作品については、「作中の私が特別
なものになろうとしていない」「凝縮という方向を放棄し、むしろ拡散させ、あたりかまわず言い放つところに独特のおもしろさがにじみ出る」と見る。「岡部における「私性」の朧化、清水における「私性」の軽さ。いずれも、短歌の新しい方向を示しているし、既成の作品構造にゆさぶりをかけている」
「短歌現代」の同じ特集には、若い世代の歌人に「規範意識や親炙した歌人の影がない」ことを嘆く山田富士郎の「ユルタンカを超えて」も収められている。若い世代の弛緩した詠いぶりを「ユルタンカ」と名付けたものだが、斉藤斎藤の評論「生きるは人生と違う」(「短歌ヴァーサス」11号)を思い出した。
斉藤によると、近代短歌における「私」は実在の「私」であり、前衛短歌では虚構の「私」が導入された。ニューウェーブにおいては、前衛短歌になった大きな物語が否定/無化され、「わがまま」な歌になった。そして今、こうした「私」と切り離された若者の〈私〉が、「いまここにいる私」なのだ。
本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある
中田有里
びーるのんでるの?
びーるのもう
来週のきょう今ごろ
今。かまけてしあわせ 今橋愛
斉藤の評論を読み直し、こうした若い世代の作品が、小高が指摘した「近年の高齢歌人の歌における私性の変化」と重なっているような気がした。淡々と目に入ってくる風景のみを追う岡部桂一郎のまなざしと中田有里のまなざしには、ほとんど違いがない。追憶を楽しむ清水房雄と、約束した過去と現在とを重ねて充足感を味わう今橋愛の喜びも、それほど隔たっていないように思える。
斉藤斎藤は、現代の若者が「いまここの私」を生きるしかないのは、「社会が流動化し、中長期的な『私』の安定が奪われたから」と見ている。その見方に倣えば、高齢者もまた「中長期的な『私』の安定」が奪われたことを切実に感じているのではないだろうか。自らの身体の衰えのみならず、そういった危機感をひしひしと感じるからこそ「私性」の朧化や軽さがあるのだとすれば、いま私たちの詠うべきものもそこにあるように思う。「ユルタンカ」に厳しい山田富士郎も「いろいろな点で日本の社会が閉塞し停滞していることは多くの人の認めることだが、短歌という詩型の抱える問題の根っこもまちがなく同じところにある」と述べている。世代に関わらず新しい「われ」と向かいあうときに来ているような気がしてならない。
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