大雑把な若者観
text 川本千栄
『短歌往来』9月号の対談「社会と短歌のゆくえ」(対談―岡井隆×松本健一)を読んだ。社会学・歴史学関係で多数の著書を持つ松本は短歌にも造詣が深い。松本と岡井の対談は、社会の変化と短歌―あるいは日本人の叙情の形式の変化を重ね合わせて考える、という読み応えのあるものだった。松本は、百年に一度の経済危機といわれる現在の社会状況を、石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いた明治末年や、世界恐慌の影響を受けた昭和四年頃と並べて、共通
する部分をあぶりだしている。松本の〈若ものの雇用の無さ、非正規の派遣社員の若ものが次々に首切られるということを身に沁みて辛いと思うこと、あるいは首を切られないでも本当に今の社会に夢が無いような感じをどう表現するのか。(…)どうしてこんなに辛いんだろう、どうして追いつめられてるんだろう、啄木の言う「時代閉塞の現状」に近いような、そういう感覚を持っている〉といった分析は興味深く読んだ。
そうした社会状況の把握や、短歌の読みを巡る部分は面白いと思ったのだが、対談を通
して気になったのが、二人の若者観が随分大雑把だということだ。まず「若者」がどのぐらいの年代を指すのかも随分揺れる。例えば、松本は、大学生や非正規雇用に悩む世代と共に、オウム事件を起した世代をも「今の若者たち」と言っている。岡井は、四十代後半のニューウェーブの歌人もその下の世代もすべて若者と呼んでいるので、どのあたりを指しているのか甚だ曖昧だ。
さらに、今の若者はこうだ、と大きく括っている若者観そのものがかなり一面
的な印象も受けた。
岡井 〈さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに〉(笹井宏之)という歌、相手は雪という存在。実はこれ自然詠なんだけれども、現在の若者にとっての自然詠っていうのは大体こんな感じでね。
松本 精神の中に天然自然が無いんですね。
岡井 無いんですねぇ。雪と言ったって蛍と言ったって、蛍も見てないし雪も見てないんで、あるいは見ていてもね、我々のような花鳥風月の様な形で使われていた蛍であったり、土であったり、雪であったりしないんだよね。(…)雪っていう物を持って来ているのは、白く降ってくる物を、人間ではない物、そして人間の死とは関係なく降り続ける雪であると考えている。
松本 そういう物質とか現象ですよね。(…)若い人の短歌を読むと、自然も記号であって、イメージが広がって行かないんですね。
確かに若者の自然詠に関してはそういう側面もあるだろう。しかし、それを若者全体に当てはめるのは少し大雑把過ぎるように思う。例えば同じ『短歌往来』の8月号は「ネット社会の新人たち」というタイトルであったが、体感を伴いながら、自然を詠んだ歌をいくつも見かける。
放射状に葉を広げいる椰子の木の蔭に抱きつくように涼まん
齋藤芳生
この草は青菅だろう寒菅にくらべてつよく鋭い葉先
五島諭
石庭の苔やはらかく雨に濡れ告げてはならぬことひとつあり
田口綾子
同じ世代の作品でもより広く探せば、さらにもう少し上の世代の作品を探せば、もっと見つかるだろう。それに、現代人にとって自然が現象や記号であるというのは、若い人だけの問題でもないように思う。世代の問題であると共に時代の問題でもあるのだ。こうした疑問が頭に浮かぶので、対談にのめりこんで読むことがなかなか出来なかった。
考えてみれば最近、若者ではない人が主観的な若者観を述べるのを読むことが何度かあった。例えば、『歌壇』7月号の坂井修一による「窪田空穂の蘇生」という評論の中に、次のような一節があった。
たしかに最近の若い短歌作者たちの多くは、「全人格的」ということなどハナから念頭にないように見える。ゆたかな感情生活や人格の陶冶など夢のまた夢のようだ。物質文明はいきつくところまでいっている。その上で、若者に還元される物質的な富はわずかである。その結果
、人生設計どころか明日の生活も不透明となった。人格云々を考える余裕などどこにもないと言う。
若い短歌作者は本当に人格には何の関心も無いのだろうか。もちろん「坂井修一がそう思った」のだろうが、それがまるで既成の事実であるかのように書かれていることに違和感を覚える。上の世代の、大雑把なイメージとしての若者像は少し脇に置いて、実際に若い世代自身の、社会や自然や人生に対する考えを、歌なり論なりで読みたいと最近よく思うのである。
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