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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

「週刊時評」が一冊へ『対峙と対話』大辻隆弘・吉川宏志共著、8月下旬刊行予定!!

第43回迢空賞受賞・ 第20回齋藤茂吉短歌文学賞受賞!!



歌会始は文学の場か
text 広坂早苗

 一昨日(8月8日)の朝日新聞朝刊文化欄に、「国旗・国歌法 成立10年 踏み絵としての斉唱」という記事があった。8月9日で、国旗・国歌法が制定されてからちょうど10年となる。もうそんなに過ぎたのか、と思うと同時に、この10年間、教育現場にどれほど理不尽な仕打ちが繰り返されてきたか、公立高校に勤める者として振り返らざるを得なかった。
 朝日新聞の記事は、英国国教会系の日本聖公会の信徒である、東京都の公立小学校音楽教員が、「君が代」のピアノ伴奏などを拒否したため、戒告や減給の処分を繰り返し受けることになった事例を取り上げている。国旗・国歌法は、その審議過程において、政府側が「強制はしない」「内心に立ち入らない」という答弁を繰り返していたはずだが、法制定後は見事に強制が行き渡り、入学式・卒業式の「君が代」斉唱時の不起立等は、校長の職務命令無視という扱いになり、全国各地の教育委員会が懲戒処分を下すことになった。詐欺まがいの異常な事態と言える。裁判になった事例も多いが、校長の職務命令が思想・良心の自由を侵すと見るかどうかは、裁判官によっても判断が分かれるため、問題は簡単ではない。国家による不当な圧力というものを身近に感じることになった「事件」だった。
 ところで私自身は、「国歌」というものが必要だというのならば「君が代」しかないだろう、「君が代」を廃するならば敗戦時に廃さなければいけなかった、既に手遅れだ、という思いがあり、また生徒を祝福すべき行事の冒頭が沈黙で始まるのは、非礼ではないかという現実的な判断もあって、近年は「君が代」を歌うことにしている。しかし、歌詞の意味が主権在民の世にふさわしくない点は、どう考えても合理化できない。
 ゆえに「君が代」を受け入れられない教員に強制することは、到底納得できない。朝日新聞の記事は、「命令に痛みを感じる者がわずかでもいる限り、その心に思いを巡らすことが民主主義には決定的に大切であるはずだ」と結ばれるが、私も同感である。天皇の治世を祝う歌に対して感じる違和感や抵抗感を、押し殺す必要は全くないはずなのに、現在の教育現場に立つと、その当たり前のことができない圧迫感を感じる。

  角川「短歌」8月号の歌壇時評「歌会始をめぐって」(高島裕)に対して、思うところがいくつかあった。高島の文章は、「開耶」18号の今井正和の時評に対する反論から始まる。歌会始の選者になった三枝昂之に対し、〈歌という手段をもって権力の座に列した〉〈裏切られた悔しさを覚える〉と批判した今井に対する反論である。高島は、三枝がかつて関わった〈新左翼〉〈学生運動〉が依拠していた理念より、〈個人の人権や民主主義を守る〉には「天皇を象徴的統合軸とする現在の日本の統治システムの方がはるかにすぐれていることは明白である」とし、今井の「自分の青春期の思想的イノセンスにいつまでも固執し続ける態度」に不快感を隠さない。
 宮中歌会始は、現在では、短歌愛好者が参加する短歌大会の頂点に位 置づけられるような催しで、イデオロギー色は表に出てこない。大規模な短歌大会なら、選者は投稿者を集められる人気と実力のある歌人が良いだろう。そういう意味で、誰が選者になろうと既に批判すべき問題ではないということか、と思いつつ読み進めていったのだが、高島の次のような言葉に出会い、次第に違和感を覚えざるを得なくなった。

 年に一度、象徴的君主と国民とが、詩歌を通じて繋がりあうということは、まことにありがたく、めでたく、うるわしいことと思う。また、わたしたちのよく知る代表的現代歌人が、選者としてそこに参与することも、よろこばしいことと思う。日本という国の固有の美質は、こういうところにある。そして短歌詩型は、この美質に深く関わっている。
 短歌詩型は、その歴史的本質において、皇室の伝統と不可分である。(中略)和歌と、和歌の生み出すさまざまな文化的様式性とが、宮廷への憧れ、都への憧れ、王朝の昔への憧れを民族の集合的家郷意識として結実させ、もって美の幻想共同体としての〈日本〉を生み出したからである。

 歌会始は、高島の言うとおり、「象徴的君主と国民とが、詩歌を通 じて繋がりあう」「ありがたく、めでたく、うるわしい」美質を備えた行事なのだろうか。短歌という詩型は、その美質に結びついたものなのか。であれば、歌会始は既に文学の場ではないし、短歌も文学ではない。歌えないことが多すぎるからだ。例えば「君が代」批判を、「天皇制」批判を、歌うことは考えられない。それを歌う人は、きっと詠進などしないし、寄せられたとしても選者が選ぶことはあり得ない。制限された場の中で、許される範囲のことを、許される程度の穏健さで、自己規制して歌うことが求められる。そのような短歌が、文学と言えるだろうか。美しい工芸品にすぎないのではないか。
 だとしたら、その選者になるというのは、文学的にどのような意味のある行為なのだろうか。「わたしたちのよく知る代表的現代歌人」が選者となることは、本当によろこばしいのだろうか。疑問に感じた。
 また、「美の幻想共同体としての〈日本〉」は美しいが、思考停止を招き、戦争になだれ込んでいったのもその〈美の幻想共同体〉であったことは、忘れるべきではない。
 このように考えると、歌会始を「短歌愛好者が参加する短歌大会の頂点」に位 置づけようとするのも合理化に過ぎないということがよくわかる。歌会始の本質は、やはり、高島が言い当てている通 りなのだろう。

 「痛みを感じる者」の「心」に「思いを巡らすこと」が民主主義には大切であるのと同様に、その「痛み」を、自己規制することなく表現できる手段が、文学でなくてはならないと私は思う。


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