「写生」「写実」の歌とは
text 広坂早苗
「写生」という言葉と「短歌」を結びつけて習ったのは、高校生の時だった。「正岡子規−写
生−根岸短歌会−アララギ派−斎藤茂吉」という具合に暗記した記憶がある。かなり乱暴な単純化だったと今では思うが、「写
生」という言葉は、「実相観入」(教科書に茂吉の顔写真入りで紹介されていた)と共に、長く記憶に残っていた。
「写生」は、英語の「スケッチ」の訳語だが、子規はこの語を文芸上の用語として「写
実」とほぼ同義に用いた。また、子規の系譜に連なるアララギ歌人たちは、拠って立つ理論として「写
生」の語を用い、その解釈を深めていった。しかし「写生」の語がもともと意味するところは、「写
実」(英語のリアリズム、仏語のレアリスムの訳語)と変わらず、空想を排して現実をありのままに描く、というほどの意味であったようだ。私も漠然と、その程度に理解していただけなのだが、「歌壇」6月号の特集「写
実短歌考」を読んで、短歌における「写生」「写実」の定義や解釈が意外に幅広いことに気づいた。短歌の技法、あるいは批評の用語として、「写
生」「写実」はよく使われるが、同じ語を異なった認識の下に使っている場合があるのではないだろうか。
桐の幹日あたる側をしんしんと蟻かよひゐき午睡ののちも 高野公彦
昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水 田谷 鋭
階くだり来る人ありてひとところ踊り場にさす月に顕はる 佐藤佐太郎
情念の夕ぐれは来て一つづつ闇に没りゆく青葉のそよぎ 岡井 隆
八月のまひる音なき刻(とき)ありて瀑布のごとくかがやく階段 真鍋美恵子
真砂ナス数ナキ星ノ其中ニ吾ニ向ヒテ光ル星アリ 正岡子規
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの 斎藤茂吉
特集の中で、数人の書き手によって「写実の名歌」として挙げられている歌の一部である。「名歌」か否かについては異論があるかもしれないが、視覚が捉えた眼前の景を克明に描く、高野公彦・田谷鋭・佐藤佐太郎の作品を「写
実」の歌と呼ぶことに反対する人は、多くはないだろう。しかし岡井隆の「情念の夕暮れ」、真鍋美恵子の「瀑布のごとく」、正岡子規の「吾ニ向ヒテ光ル星アリ」はどうだろうか。実景ではないもの、幻視、想像、願望などが入り混じるこれらの作品も、「写
実」の範囲内と考える人がいる。あるいはこれこそ「写実」の極致だと考えるのかもしれない。また斎藤茂吉の「除外例なき死といへるもの」という「認識」をうたった歌も、「写
実」という括りで考えるのがよいのだろうか。こう考えていくと、「写
実」の解釈は幅広く、共通理解がなされていない部分も多くあるのではないだろうかと思った。
ところで、この特集には興味をひかれた論が多くあった。特に、今井恵子の「『実』の創造」は出色だと思う。今井は、「モノやコトの中に、「実」を見出して歌うことを『写
実』という」「『実』は『虚』の対立語で、つまり中身が詰まっていることを指す。中身とは、虚飾や偽りのない作者の心である。それを歌うのが写
実である」と定義した上で、三國玲子の一首を引いて、次のように述べる。
人の不幸が安らぎとなる哀しみを幾たびせしか孤り過ぎきて 三國玲子
「哀しみ」一語の中に、動揺や葛藤や努力や挫折など、さまざまな人間の心の動きが見える。(中略)その過程を「哀しみ」という語で括ったとき、作者は、さまざまに揺れ動いた自己を、客体化する視点を得たのである。「人の不幸が安らぎとなる」という現実を肯定するのではなく、立ち止まり対立し格闘して、揺れ動いた自己を客体化しえたとき、「哀しみ」という人間の普遍に触れた。(中略)
写実を、言葉にリアリティを持たせる方法だといい、それは「虚飾や偽りのない作者の心」を写
すことだといっても、どこかに都合よく「虚飾や偽りのない作者の心」があるのではない。まずは現実に立ち止まり、時間をかけて自己内部に、「虚飾や偽りのない作者の心」を創り出すことだ。「実」は、作者みずからの創造物なのである。
実際にあるものを描写するのが「写実」なのではなく、現実の前に立ち止まり、考え込み、格闘する過程で、自らの中に育ってくるもの、現われてくるものこそが「実」で、それを歌うのが「写
実」だという考え方である。なるほど、「実」が「虚飾や偽りのない作者の心」であるとしたら、それを見出すことは簡単ではない。創造と同義と言ってもいいだろう。だからその「実」を掴んだとき、表現は「人間の普遍」に届くのである。このような今井の主張に私は深く納得し、「写
実」=「現実をありのままに描くこと」としか考えていなかった自分の浅慮を恥じたのだった。
また奥田亡羊は、「私は写実を対象がもともと持っていた意味を拭い去る行為だと思っている。ひとたび文脈を失ったモノは次の文脈を求めて浮遊し、世界は新しい表情を見せる。それがリアリティであり、また写
実の本質ではないだろうか」と記しているが、この論も、今井の論に通
じるところがあると思う。「実」は発見されるべき新しいものであり、対象がもともと持っていた意味を離れることによって、新しい文脈が生まれてくる可能性があるからだ。
「写実」「写生」の語にまつわるさまざまな解釈・可能性に触れて、いろいろなことを教えられ、考えさせられた。
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