短歌におけるオノマトペ
text 川本千栄
「短歌研究」7月号の特集はオノマトペであった。また「短歌現代」7月号にも「オノマトペの魅力」という特集があった。今回、特に面
白かったのは、「短歌研究」の特集の最初に置かれていた特別対談、山口仲美vs小池光「日本人はオノマトペがすき?」であった。小池は同誌に2007年から「短歌を考える」という連載をしているが、その直近5回分が「オノマトペ考」であったことを受けての対談であると思われる。山口仲美は国語学者であり、明治大学教授。著書『犬は「びよ」と鳴いていた』『日本語の歴史』などは短歌を考える上でも大変参考になるし、何より読みやすく、面
白い。
一読して驚くのは山口が古典和歌のみならず現代短歌にも大変詳しく、また読みの精度も相当なものだということである。対する小池は自身の文章に書いたオノマトペに対する論考が学術的に間違っている事を山口から幾つか指摘され、甚だ苦しい立場に置かれていた。例えば小池は日本語のオノマトペの代表格として「ABAB型」と「AッBリ型」を挙げているが、山口に言わせると、「ABAB型」は間違い無く多いが、「AッBリ」型はそれほど多くないということだ。それを指摘された小池は「わかりました(笑)。専門家ではない気安さで何となく感覚的な印象で書いてしまったんですけれども。」と応じている。
こうしたやりとりが幾つもあり、改めて小池の連載を読み直して見ると、「〜と考えていいとおもう」「〜なのだろう」「〜とは思われぬ
」「〜とは感じられない」という語尾で自らの主張を表している部分が多く、元々個人的感覚で書かれていたことが分かる。やはり、オノマトペの起源や使用される頻度など、史料から考察していくべき論を感覚に頼って書くと、どうしても説得力が弱くなる。
これは別に小池を非難しているわけではない。短歌の読みは個人的感覚を駆使して深めていくところがあるので、歌人が感覚に依存した論を書くのは、短歌の生理上当然と言えば当然だ。また、それが優れた洞察に繋がることもある。例えば小池は「短歌を考える」の連載第一回で、日本語の音それぞれが持つ質感を音楽の絶対音感に例えて説明していたが、それはかなり当を得ていたようだ。それこそ個人の体感に依拠した話のようだが、山口も「日本語の音そのものがある一定の感覚を持っている、意味を持っているということですよね。」と音と絵の連関に関する実験を紹介しながら言っているように、小池の推理は、音韻の持つ根源的な意味に触れていたようだ。
つまり、歌人というのは言語に対する体感や感覚が鋭い人であるはずで、だから固有の音の質感などという話になれば大いにその本領を発揮し、専門家もうなずく推理をすることも可能だということだ。もっと言えば、オノマトペの起源や成立についての考証はその道のプロに任せて、小池には研究や学問とは違う立場で、「短歌におけるオノマトペ」に関する発言をもっと多くして欲しかった。
もちろん、そうした小池の発言はいくつかあったし、それに対して山口はあくまで言語学者としての意見を述べていたが、そのあたりのやり取りがやはりこの企画の価値が最も出ていたところだろう。例えば、斎藤茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」を挙げて、
小池 短歌の場合の特徴なんですけれども、単なるオノマトペというのではなくて、音のリズム感を使って、序奏というんですか、いきなり本題に入らないで、ちょっとそこで停滞して転換するみたいなところに、すごくこの「しんしんと」などは効いているわけです。「死に近き母に添寝の」と言っておいて、下句に蛙を出すときにそこへ「しんしん」の橋を架けてつなぐみたいなところがある。(…)
と述べ、「しんしん」を無意味な音として置いて上句と下句を繋いでいることを説明している。それに対して山口は「しんしんと」には意味があると言ってなかなか納得しないが、そこを小池が上句下句の両方に掛かっていると説明している。ただ山口も古典和歌に使われる掛詞の例を次々繰り出してくるなど、大変な論客である。しかも前述したように、現代短歌のすぐれたオノマトペの例歌も豊富に引用して論じている。まさに丁々発止の掛け合いと言ったところで、読み応えがあった。
実作者・歌人でない人、特に言語学者の立場から見たオノマトペの考察は新鮮である。「擬音語とか擬態語というのは、音そのものが意味を表す、言語の中で非常に特殊な言語ですよね」という山口の指摘は、やはり短歌作者の口からは出て来ない。改めて違う角度から、短歌の中のオノマトペを再考する機会を得た対談であった。
なにもかも決めかねている日々ののち ぱしゅっとあける三ツ矢サイダー
糊のきくセーラー襟にじくじくの自意識熟れてたぶん醜い
自転車の学校名のステッカーひりひり剥がす 忘れずにいる
野口あや子『くびすじの欠片』
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