仕事の歌
text 川本千栄
ここしばらく、いくつかの総合誌・結社誌が「仕事の歌」を特集した。『短歌往来』5月号「ハード・ワーキングを詠うV」、『かりん』5月号と『短歌現代』6月号共に「特集・仕事の歌」である。ほぼ同時期に3つも特集が重なったということに加えて、『短歌往来』の特集は、タイトルからも分かるように、同じ企画の3回目である(1回目は2005年10月号、2回目は2007年3月号)。
なぜこれほど仕事の歌の特集が相次いだのか。それにはいくつか理由があるだろうが、『短歌現代』の特集の扉に〈昨年の世界同時不況以来、派遣切りや雇用不安という言葉が飛び交い、「仕事」とは何なのか、ということを改めて考えさせられる。(…)〉とあるように、社会情勢・経済状況との関連から仕事の歌を再考しようという機運が高まったという点が大きいだろう。ただ、特集における文章では「仕事の歌」が必ずしも今詠まれている、あるいは読まれているとは捉えられていない。
仕事のうたの名歌は少ない。要因として幾つかのことが言える。一つは歌壇人口の高年齢化を背景に歌の書き手が定年を迎え職場を離れたことである。(…)二つは、農村漁村の肉体労働や工場における生産労働が軽く見られる時代になり(…)額に汗して働く人は少ない。(…)一人称としての日常性や体験を踏まえたリアリズムが軽視されて、読者の関心が別
のところに移ろうとしている。(…)深刻な景気低迷の今日においても働く歌はきわめて人気がない。(…)
島崎榮一「修羅の時代の美学」『短歌現代』
私自身は島崎と意見が重ならないところも多いのだが、ある年代以上の人が、仕事の歌が重視されなくなった原因をこう見ているのだ、というのは理解できる。つまり、歌壇人口の老齢化と若い作者の減少、重労働の軽視、リアリズムの軽視、などである。島崎のそうした問題点の指摘への返答になるかもしれないと思うのが、次の文章である。
私は約十年、ヘルパーをしている。仕事は好きで、たぶん向いている。まだまだ努力も足りず、試みたいこともある。だが一方で、仕事について考えることに疲れている自分がいる。(…)私が労働の歌を作るのを避けているのは、等身大の自分の姿を見たくないからだ。だが「等身大の自分」を歌から排除することは難しいだろうとも思う。労働と消費の距離の短さは労働を正面
から歌う気持を減退させ、生きることの不安感を体内に蓄積させる。(…)
中山洋祐「労働の表現の変容について」『かりん』
中山の評論のテーマは「三十代以下の仕事の歌」であり、彼自身も三十代でヘルパーとして働いている。(前出の『短歌往来』の2007年3月の特集には彼自身の歌が収められている。)島崎の指摘とは違い、若い世代で、かつ、重労働に従事している作者だとしても、仕事の歌を好むわけではないことがわかる。この論にはむしろ、そんな等身大の自分を詠えない屈託が述べられているのだ。中山はこの論の後半で、三十代女性歌人の歌を引きながら、現在において労働の歌を歌う難しさと、どのような歌が時代の閉塞感を切り崩す力を持ち得るかを分析していく。やや例歌が少ないが、論理的な分析であり、現代という時代が持つ、仕事の歌や仕事そのものに対する複雑な状況とそれに寄せる思いを、理解する手がかりになると思われる。
今回『かりん』の特集で、この特集の担当者である坂井修一が、「死に際に巨大化をする怪人のように企業の再編つづく」(松木秀)「どうやったら金持ちになれるのだろう朝やけが空を知らない色にしている」(花山周子)の二首を取り上げ、「ここには、世の中の何かを改善していこうとか、社会と自己の関係を主体的に結んでいこうとか考える若者はいない」とやや否定的な口調で述べている。しかし、本来個人の歌う仕事の歌というのは、そうした教条主義的な目的に奉仕するためのものではないだろう。仕事に対する高尚な思想があるからいい歌になるというものでもないのだ。
最後に今回読んだ中でよいと思った仕事の歌を三首。
薄紙を一枚いちまい剥がしゆく鉋引くなり息長く吐き
永松徳興(大工)
『短歌往来』5月号
ぐんぐんと春植え甘蔗(キビ)の育ちゆきうるまの風吹くこの島愛し
大城永信(農業)
飲食(おんじき)と死は斜向かいスプーンに歪んで映るわたくしの影
斎藤真伸(介護)
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