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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

第43回迢空賞受賞!!
第20回齋藤茂吉短歌文学賞受賞!!




読み手の持つ「言語の範囲」
text 広坂早苗

 先週この欄で取り上げられた穂村弘の時評(朝日新聞・2009.3.30朝刊)については、 私も違和感を感じていたので、一言。
 数ヶ月前に「pool」vol.6を読み、その後しばらくして穂村の時評を読んだ時、私も川本さんと同様、実際の座談会記録とはかけ離れている印象を受けた。そこで「pool」を読み返してみたのだが、やはり穂村の引用はかなり恣意的で、川本さんも指摘しているように、自分の言いたいこと(「短歌というジャンル内で長年流通 してきた表現スタイルの、耐用期限についての問題」)を述べるために、若手歌人の発言から都合の良い部分だけを、文脈を無視して持ち出してきていると思った。石川美南が提出した稲葉京子の「いとしめば…」一首に対して、「オカルト性」「通 俗的」などと発言した五島諭にしても、確かに「リアルと感じられない」とは言っているが、稲葉の歌が耐用期限切れだと主張したわけではない。また内山晶太は「稲葉さんの歌は、歌のリアルの歌なんですよ。それに対してリアルじゃないと感じる人が今増えている気はしますよね。」と言った後に、「それが短歌にとって良いことなのか悪いことなのかは別 の話であって。盛田さんの歌(筆者注:盛田志保子「十円じゃなんにも買えないよといえばひかって走り去る夏休み」)は、稲葉さんの歌に比べれば遥かに現実のリアルさがあると思うんだけども、良い歌なのかは、ちょっと私にはわからないところがあります」と続けている。ここまで読めば、内山自身が稲葉の歌を「リアルじゃない」と感じているのでも、良くない歌だと言っているのでもないことが了解される。(「歌のリアル」「現実のリアル」という言葉がわかりにくいが、筆者は広辞苑の言葉に対応させて、「歌のリアル」とは、虚構であるが「真に迫ったさま」、「現実のリアル」とは、日常の中に「実際に存在するさま」だと理解した。)しかし、朝日新聞の時評を読んだ印象では、若手歌人たちの何人かが稲葉の歌に異議申し立てをしたかのように感じられるので、やはり穂村の引用の仕方はアンフェアだと思う。穂村は自分自身の意見として「期限切れ」を主張すべきであった。
 ところで、読み返して今回私が関心を持ったのは、五島の稲葉の歌に対する「読み」である。「いとしめば…」一首に対する五島の批評は、私にとって納得がいかない。なぜ五島がそのように読むのか不思議なのだが、それを考える前に、この歌について春日井健が記した丁寧な鑑賞があるので、引いてみる。私の共感する鑑賞である。

いとしめば人形作りが魂を入れざりし春のひなを買ひ来ぬ

 (前略)人形作りがあまりに愛しんだせいで人形に魂を入れなかったというのだ。人の手から手へ渡っていく人形は、よく出来ていればいるほどさまざまな運命に弄ばれることになる。(中略)だから人形作りはあえて魂を入れなかった……と、稲葉さんは思う。そう思いながら春の雛を買って帰る。そっと壊れやすいものを抱えるようにして。
 しかしこれは本当のことではあるまい。人形作りはやはり人形に魂を入れたのだ。どうしても欲しい人形を前にしてその命を統べることを怖れた彼女が勝手に呟いてみたまでだ。ほとんど緊張状態にまで昂ぶって、ついにかりそめの夢を紡ぎだすほどにも彼女の心は繊細である。(『槐の傘』跋文

 作者の繊細な感受性と想像力に寄り添う、行き届いた鑑賞だと思う。しかし五島はこの歌について、「魂とか、微妙なオカルト的感覚?大仰な言い回しが空々しく思える」「その微妙なオカルト性が、非常に通 俗的な感じがするんです。もうこの感覚はポップスだろう、と」「現代短歌のリアルはおかしくなったという感じがしますね、魂とか形而上的な世界が安くなったように思えるんです。個人的には。オカルトブームとか超能力ブームとかありましたよね。だからそれが駆逐されるのは良いことだなあ、と」という発言をしている。人形はそもそも呪術信仰的なものであるから、「オカルト」(神秘的なこと)と無縁ではないのだが、私には、五島が「魂」という言葉(だけ)に過剰に反応し、「通 俗」「オカルト的感覚」と批判しているように思える。なるほど「魂」は大仰な言葉であるかもしれないが、「人形」「人形作り」「魂」は縁語のようなものだろう。作品の中で取り立てて浮き上がっているとは思われないし、オカルトブームに乗って安直に使われた言葉とも到底思えない。それより五島の中に、「魂→オカルトブーム→通 俗」というような図式が強く出来上がっていて、引用したような読みが出てきたのではないかと考えた。(それが良くないとは言わない)
 「アークレポート」2号の「若手歌人討論」で、西巻真が「読み」に関して次のような発言をしているのが参考になる。

 よく吉川宏志さんや大松達知さんが、「表現に即して読む」ということを言っておられますが、そんなことは本当に可能なのだろうか?といぶかしくなることがありますね。
 そもそも読み手の「私」だって、数ある表現の範疇のなかで生きてきているわけで、どうしても読み手の知っている言語の範囲でしか「読み」は不可能なものでしょう。

 表現されたものをどのように読むか。それは読者の持つ言語経験に大きく左右されるゆえ、「表現に即して読む」ことは不可能ではないかと西巻は言うのだが、先述の五島の批評を読むと、西巻の主張が説得力を持つように思われる。
 世代差のみでなく、個々人の持つバックグラウンド、言語経験により、解釈しやすい作品・しにくい作品はそれぞれ違うだろう。穂村の時評に反応した「短歌現代」5月号の匿名時評は、「よし、内山よ、五島よ。きみたちのいうその『リアル』な作は、きみたち自身のサークルにしか通 じない『味』『くすぐり』の上に成り立っていないか、それをよく考えてもらいたい」と記すが、自らの仲間内にしか通 じない「言語の範囲」で語り、その外側に出る努力をすべきだと考えないのは、この時評の書き手も含めて、上の世代も同じなのかもしれないと思う。歌の読者それぞれが異なる「言語の範囲」を持つということを認めつつ、背景の異なる相手にも届く言葉を探して、批評していきたいものだと考える。


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