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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

第20回斎藤茂吉短歌文学賞受賞!!



短歌と作者名
text 広坂早苗

 小高賢著『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』(トランスビュー)が刊行された。「短歌研究」誌上に三年をかけて連載されたもので、三百頁を越える大部の著作である。
 上田は一九二三年生まれ、一九八九年一月八日にこの世を去った。上田が亡くなる前日に、昭和天皇が逝去している。死後二十年という時代の流れを経て振り返るとき、新たに見えてくるものがあるのではないか。小高はそんな意識を持って、上田の仕事と人生に立ち向かっている。
 私が短歌に関心を持つようになったのが、ちょうど昭和の末期だった。当時上田の『短歌一生』(講談社学術文庫)が刊行され、「短歌を日本語の底荷だと思っている」というフレーズが、とりわけ話題になったことを記憶している。しかし私が認識していたのは、せいぜい歌人としての上田三四二であり、文芸評論・小説・伝記・エッセイなど、幅広い分野でそれぞれ評価を得ていた、言わばオールラウンド・プレイヤーとしての上田については、今回本書に教えられたところが大きかった。
 小高は、上田が青年期より大病を繰り返しながら、医師となり、短歌と出会い、生活上のさまざまな軋轢を伴いつつ、短歌や小説・評論を書いていった過程、そのバックグラウンドを丹念に辿っている。具体的な資料が揃っていて、ディテールが非常に面 白い。例えば、第二章「短歌と批評の関係」に記されている、三十代半ばの頃、前登志夫・塚本邦雄と行った座談会のスリリングな様子。その中から、上田の、現在から見れば誠に正論だが、当時は保守的と見られたであろう立脚点が見えてくる。また、第四章「短歌と小説の関係」に記される、上田の小説が「長編短歌」であるという小高の説。伊藤整の『文学入門』を引き、また志賀直哉・太宰治などとの比較において、上田の小説に「フィクションに飛躍するばね」が欠けていると指摘する。小高の目配りは私小説史にも十分行き届いており、読めば納得させられる論である。そこから導き出される小説と短歌の本質的な違い(葛藤の抱え込み方・作品世界の統制の仕方)についての小高の考察は興味深い。
 本書の中で、とりわけ興味を引かれたのは、第三章「歌人の誕生」にある、歌集の「磁場」について書かれた部分である。上田は一九七五年第三歌集『湧井』を刊行、迢空賞を受賞する。この『湧井』には、結腸癌の手術をすることになった衝撃を綴った、前年発表のエッセイ「たまものとしての四〇代」が、栞として挟み込まれていた。この点について、小高は次のように述べる。

 『湧井』は「たまものとしての四〇代」という磁場のなかで読むようにという、作者の「強制・装置」がある。読者は、大病・手術そしてその後という、背景にひきずられてゆく。他者が介入できない強力な磁場だけに、そういう「読み」にならざるをえない。
 短歌は、個人的な体験が色濃く反映する詩型である。ある時間を経過した作品を集め、パッケージした歌集には、よけい、そういう背景が滲むところがある。作者を離れた読みは、実際は不可能かもしれない。(中略)つまり緻密な、個別 の作品鑑賞が、どこか封じられてしまうところがないとはいえない。

 そして小高は、『湧井』の作品を、(1)大病・手術を前提として読んだときに感動するもの(その前提を外すと感動が伝わりにくいもの)と、(2)その前提がなくても十分鑑賞に堪えるもの、に分けて鑑賞している。
 (1)・(2)の歌を、一首ずつ挙げてみる。

(1)白木蓮(はくれん)のひと木こぞりて花咲くは去年(こぞ)のごとくにて去年よりかなし
(2)当直のこの夜の雪に死をみとりくだかけの鳴くころほひ眠る

 (1)の「去年よりかなし」という直接的な表現が多くの読者に迎えられるのは、大病・手術の前提を抜きにしては考えられないが、(2)はそうした前提を離れて、仕事上日常的にある看取りについて、何も語らぬ 静謐さ・空白感が、読者を打つ。そのように小高は述べる。
 (1)の歌と(2)の歌の、いずれを秀歌とするか。小高はその判断を下さない(下せない)が、自ら「磁場」を作り上げた上田の方法については、しぶしぶ認めているという感じだ。作品の持つバックグラウンドによって、つまり作者名によって作品の鑑賞が変わってしまうなら、文学としての作品の完成度を問題にすることができないからである。小説や絵画なら、作者名に寄り掛かるところは、皆無とは言えないにしても、ずいぶん少ないであろう。しかし、読者が『湧井』を支持する理由は、(2)の歌ばかりでなく、(1)の歌にもあるのであり、それには「栞」の効果 が大きいということは否定できない。そして素朴に考えれば、そこに何らかの仕掛けがあったとしても、良い作品でなければ、読者の感動を呼ばないのではないか。
 良い作品は作者不詳であれ、鑑賞に堪える。しかし作者情報が明らかになると、より理解が深まる。日頃はこのように合理化して考えているが、果 たしてそれは本当だろうか。短歌と作者名(作者情報)について、再考させられる部分であった。 


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