「読み」とその言語化
text 川本千栄
「短歌人」1月号の時評で内山晶太が、『歌壇』11月号の特集「批評のありか‐短歌の評論・研究の現在」に私が書いた文章「言葉に即するということ」を取り上げている。
(…)川本は「作品批評は一首を丁寧に読み込んで、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道」であるとし、評者個人の体感や状況論といった目に見えないものを念頭に評するのではなく「まず、歌の言葉に即して読み、言葉を通
しての批評を他者と共有するのが順序だ」という。まったくその通
りで正論だと思うのだが、待てよ、となる。
短歌というものは書かれた言葉を味わうものであると同時に、書かれた言葉と書かれた言葉の空白にあるなにかをも味わうものである。(…)言葉とはなにものにも影響されず、純度100%として真空状態のなかに存在するものではなく、その置かれた状況、ひいてはそれを読み解く人間の極個人的な体感というような目に見えないものによって微妙にふるえているものであって、そのふるえをどれだけ可視化できるか、ということも、眼前に置かれた「歌の言葉」に即することと同様に捨象することのできないものではないか。
川本の論には、その部分がばっさりと取り落とされているような印象を受けた。(…)
なかなか鋭い指摘であり、心して読んだ。私としては、言葉だけを読むと主張したつもりはないのだが、改めて自論を読み返してみると、うまく表現できていないと思えるところがいくつかあった。伝わらなかったのは、書き方に問題があったということだ。そこでこの際なので「読み」に関する自分の論を確認するつもりで書き足してみたい。
内山の引用にもあるように、私は短歌の作品批評は「一首を丁寧に読み込んで、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道」、だと思っている。このあたりについては、『歌壇』に書いたことと今でも全く同じ意見である。この意見は私のオリジナルというよりは、読みについての意見としてよく言われていることであろう。しかし、多くの人が「言葉に即して読む」と言いながらも、具体的な読みとなるとその言葉への即し方は人それぞれで、これでは目の前の言葉を丁寧に読んでいることにはならない、と感じる評もある。極端な場合は一首の中の言葉を断片的につないで自分勝手なお話を作ってしまったり、一つの言葉に反応して自分語りをしてしまっているような例もよく見かける。
そこまででなくても、言葉を読み取る前に、作者の心情にジャンプしたり、その作者の作品傾向をまとめるような評になったりということはある。「歌壇」ではこうした評について書いた。さらに、(この週刊時評でも取り上げたが)川野里子の「透明な瓦礫」のように抽象的なものを論拠に評するのも危うい、ということを言った。
以上のように、言葉が表現しているものを読み取るのがまず正道、という主張は、言葉を丁寧に読んでいない評が案外多いのではないか、という思いから発している。つまり、「言葉に即すること、それがまず前提だ」と言いたいのである。稿はそこで終わっているが、「読み」がそこで終わるわけではない。次に、作者に関する情報、時代や社会の状況なども踏まえながら読んでいくことになる。「透明な瓦礫」や「酸欠世界」といった抽象的なものを評の論拠にはできないが、「戦後すぐ」だとか「学生運動の最盛期」だとかの社会状況は一首を評する上で有効だ。作者の周辺情報や時代・社会背景は、評者によって知識の多少はあるが、書かれた文字同様に誰に対しても明白なものと言える。
しかし、読みに関して実は最も問題なのは、まず言葉に即して次に作者の情報などに照らして丁寧に読んだとしても、全ての歌が読み切れるわけではないという点だ。ある歌がいいと思っても、その歌の良さを上手く言語化できないことはままある。「分からないけどいい」「いいけれどその良さが説明できない」という感覚は、私自身が歌を実際に読む場面
で常に内心に持つ矛盾点である。例えば、ある歌集を評する際、特徴的な点に沿って歌を挙げ、解釈していく。その時に一番琴線に触れた歌が、そうした分類と解説になじまないということが度々ある。解釈したらつまらないものになってしまい、歌の良さが消えたように思えてしまうのだ。散文にすれば韻文の持つリズムは消えてしまうし、ほぐして述べれば、修辞によって詩が持っていたダイナミズムが消えてしまうのは、ある意味当然なことだからだ。
しかし、そこでうまく説明できないからといって、「この歌いいよね」「うん、いいね」で終わったら読みとしても批評としても問題外で、できる限り努力して言語化に努めるしかない。何がどういいのかを共通
の基盤で語れるところまで持っていく意志が大切なのだ。言葉で書かれたものを別
の言葉に直すのだから、その良さを完璧に移し変えることはできないが、最大値に近づけるよう努力することは大切なのではないか。このあたりは、「そのふるえをどれだけ可視化できるか」という内山の問題意識と重なるのではないかと思っているのだが、どうだろうか。
歌の良さを言語化し、共通の基盤で語ろうと努力することにより、評が独りよがりの鑑賞に陥ることを避けられる。さらに言えば、読んだ者がその説明に納得し、そして歌の良さを味わえるようになれば、それこそ評が評としての役割を果
たしたことになるだろう。つまり、歌を一読しても良さが分からなかった者が、評によって歌を自分の中で味わい直し、感動を共有できるという状況である。優れた評が歌の価値を高め、短歌の世界を豊饒にする。私自身もそうした評を目指したいと思っている。
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