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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

短歌とフェアユース
text 松村由利子

 短歌や俳句は、著作権という観点から見ると文学の中でも独特の位 置にある。インターネット時代に入り、違法なコピーや引用に対して著作権を守ろうとする動きが活発になっているが、短歌や俳句などの短詩型文学は「引用されてなんぼ」の世界だからである。
 例えば短歌の場合、上の句だけ、下の句だけ、などという一部の引用はまずあり得ない。一首全部を引かなければ引用の意味をなさないのが、小説などの散文作品とは大きく違う点だ。また、その一首が頻繁に引用され、多くの人に口ずさまれるようになるのが、歌の評価を決めることにもなる。本歌取りという伝統があるため、他人の歌の一部を用いて新たな一首を作るのも、パロディー歌を作るのも全く自由だ。その出来が悪ければ、誰にも相手にされないだけの話である。
 短歌のそんな性質を改めて興味深く思ったのは、日本文藝家協会が「フェアユース(公正利用)」に対して、ひどく神経質になっているからだ。フェアユースとは、英米の著作権法で「公正利用」とみなされる用途には、著作物を著作権者の許諾なしに使えるという規定だ。
 英米法は、最初に「フェアユースならOK」と決め、何がフェアで何がフェアでないかについて判例を重ねてゆく慣習法だが、日本の著作権法は、あらかじめ許諾を緩和する具体的な用途を、図書館や学校などと限定列挙しておく実定法なので、インターネットなどの新しい技術に対応しきれていない。国はいま、著作権法のなかに「日本版フェアユース」という概念を盛り込む改正案を練っている段階だ。ところが文藝家協会は二〇〇八年十一月、内閣官房知的財産戦略推進事務局の「デジタル・ネット時代における知財制度専門調査会報告案」に対して、もし「日本版フェアユース」が導入されれば著作権が守られなくなる恐れがあるという内容のパブリックコメントを提出した。
 文藝家協会は特に、米国におけるグーグルの書籍検索では、書籍の宣伝のために本体の二割程度の内容が本屋で立ち読みするように読める現状を懸念している。協会が十二月に会員に配布したパンフレットにはこういうくだりがある。

 新刊書の場合は読める部分が2割程度に限定されるとはいっても、短編小説なら全文を読めてしまいますし、コラムや詩、短歌、俳句なら、1ページ読んだだけで作品の全体をただで読めることになります。これでは明らかに損失が出ているように思えますが、フェアユースという考え方では、とりあえずシステムを稼働させてみて、問題があれば苦情を受け付け(すでに日本でも苦情が出て削除されたケースがあります)、それで問題が解決されなければ裁判ということになります。いずれにしても、著作権者が不利な立場におかれることはまちがいありません。

 あくまでも著作権を守ろうとする文藝家協会の姿勢について、フランス思想、身体論などを専門とする内田樹はブログで違和感を表明している(2009年1月7日「読者と書籍購入者」http://blog.tatsuru.com/)。
 内田は「私の場合、書物を刊行したり、論文を書いたりするのは、一人でも多くの人に読んで欲しいからであり、一円でも多くの金が欲しいからではない。こちらからお金を払っても申し上げたいことがあるので、本を書いているのである。(中略)私が「著作権者の不利」と見なすのは、第一に私の書いたものへのアクセスが妨害されたり、禁止されたりすることであり、それ以外はどれも副次的なことにすぎないと考えている」という。
 この言葉は、歌人なら誰でも賛同するに違いない内容ではないだろうか。売れっ子の小説家のことは知らないが、短歌をつくってお金を得ようとする歌人はほとんどいないと思う。「こちらからお金を払っても」表現したいことがあるから歌集を出す人が大半に違いない。だからこそ、「引用されてなんぼ」という価値観なのだと思う。
 文藝家協会のパンフレットの「コラムや詩、短歌、俳句なら、1ページ読んだだけで作品の全体をただで読める」というのは、読んだ人がそれだけで満足して、本を購入するのをやめてしまうことを心配しているのだろう。けれども、私たちは優れた一首の力を知っている。一首を読んで心の震えるような感動を味わい、「この人の別 の歌をもっと読みたい!」と願わない人はいない。
 私は歌を始める前、たまたま買った角川書店の月刊「短歌」で、初めて河野裕子の歌に出合った。「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」に感激し、あちこち歌集を探して手に入れた。一首の力はそれほど大きい。数首だけ読んで終わりというのであれば、その歌がその読者を感動させられなかっただけなのだ。
 内田は「ネット上で無償で読める読者が一気に増えることがどうして『著作権者の不利』にみなされるのか、私にはその理路が見えないのである。ネット上で1ページ読んだだけで、『作品の全体』を読んだ気になって、『これなら買う必要がない』と判断した人がいて、そのせいで著作権者に入るべき金が目減りしたとしても、それは読者の責任でもシステムの責任でもなく、『作品』の責任である」と言い切る。私も同感である。そして、もしかすると、歌人はフェアユースの本質を小説家よりも実感しやすいのではないか、と思う。
 歌集一冊の内容がまるまる検索できてしまうシステムがあれば、もちろん問題だ。また作者名のない引用なども困る。しかし、作者名がきちんと記されて歌集の二割ほどオープンになった場合、読む人は、作者の抒情の質や表現力、テーマをよく知ることができ、歌集を購入するかどうかを的確に見極められるに違いない。歌集はなかなか普通 の書店に並ばないし、それは作者にとって決して悪いことではない。
 短歌が引用に関して開かれた性質をもっているのは、小さな詩型だからというだけだろうか。そうではないと思う。表現とは何か、著作権とは誰のために、何のためにあるのか−−大きな市場をもたず、純粋に表現という土俵で勝負してきた短歌は、フェアユースに最も近いところにある文学かもしれない。こんなに小さな詩型であっても、数十首程度の公開は損失になり得ない。まして、もっと長い形である詩や小説の場合、何も恐れることはないのだと、短詩型文学に関わる私たちから提言できるかもしれないと思うと愉快である。

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