自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内

週刊時評

大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ

好評既刊一覧

既刊書籍一覧

短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー

自費出版のご案内

短歌界リンク

掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

何をもって「亡び」と言うのか
text 広坂早苗

 先回の時評で川本千栄さんが取り上げていた、水村美苗の『日本語が亡びるとき』は、私も興味深く読んだ。川本さんが大筋を紹介しているので、それに少し補足してみる。
 水村は言語を〈現地語〉〈普遍語〉〈国語〉の三種類に分類している。〈現地語〉は、ある地域で使用される話し言葉を主体とする言語のことで、「母語」と同義。〈普遍語〉は、聖典の言葉であったラテン語や、日本で古く学問や公文書に使われた漢文のように、「叡智」を伝える書き言葉で、ヨーロッパ全土、あるいは東アジアの漢字文化圏など、広範囲で共有された言語である。〈国語〉というのは、もともと書き言葉を持たなかった〈現地語〉が、〈普遍語〉の翻訳を通 して獲得した書き言葉で、〈国語〉の成立により、母語で学問をし、文学を書き記すことが初めて可能になった。
 日本は、中国の漢字文化の恩恵を受けながらも、地理的にある程度離れていたために、かなの発明など独自の優れた文化(文学)を創り上げてきた歴史を持ち、また近代に大国の植民地とならなかった幸運が重なって、高度な〈国語〉を構築することができた。それゆえ、「日本近代文学の奇跡」が起こり得たのだ。以上のように水村は言う。「日本近代文学の奇跡」とは、漱石、鴎外を初めとする、主に十九世紀末から二十世紀初頭に輩出した作家・作品を指すようである。水村が、これら「日本近代文学」にひとかたならぬ 愛情を持っていることは、本書の随所から感じられるのだが、具体的な作品名でなく「日本近代文学」という大雑把な括りで語られるため、中身ははっきりしない。また、

 「『浮雲』は未完でありながら、日本近代文学の最高傑作の一つである。のちの小説であの高みに達した作品は、数えられるほどしかない」

 という文などに見える「高み」という語の意味合いも曖昧であり、気分に流れているところが残念である。しかしそれはさておき、明治維新から間もない近代日本に豊かな〈国語〉が構築され、近代文学が花開いたのは、近代以前から、〈普遍語〉である漢文の〈現地語〉に過ぎなかった日本語が、書き言葉として成熟していたからだという部分の論証には、納得するところが多かった。
 ところで、本書の書名にある日本語の「亡び」とは、成熟した「日本近代文学」を生んだ〈国語〉としての日本語が消滅し、今後学問や文学を担うことのない〈現地語〉としての日本語しか残らないのではないか、という危惧である。グローバリズムの進行とインターネットの普及が目覚ましい現代において、学術論文も文学作品も、より多くの受け手を得るためには、英語で書くのがよい。「叡智」を求める人は、そう考えるのではないかと、水村は言うのである。
 すでに学術論文、特に自然科学系、社会科学系の論文や著作を、日本語でなく英語で記す日本人も多いだろう。しかし〈国語〉を使わずに小説や詩を書くことが、どれほど可能なのだろうか。今後多くの日本人が、母語でない英語で小説を書くようになるのだろうか。そうなれば、英語で作れない短歌は(英訳短歌は短歌とは別 物)、文学と認知されなくなるのだろうか(既に認知されていないという人もいる)。今年度の芥川賞受賞作『時が滲む朝』は、中国語を母語とする作家が日本語で書いた小説だったが、ごく特殊な例(しかも英語でなく日本語)ではないだろうか。
 こうした考えは現状にそぐわず、楽天的に過ぎるのかもしれないが、先回川本さんが指摘していたように、水村の憂慮は、「近代日本文学」ではない「現代日本文学」に対する不信に根っこがあるように思われるのである。不信というよりは、全否定である。例えば地球的規模で売れた『ハリー・ポッター』について、水村は以下のように記す。

 『ハリー・ポッター』とは、ほかの子が読んでいるから自分の子にも読ませねばと世界中の親が思うに至った本である。
 原理的には、そのような本はどのようなものでもありうる。優れた文学だという可能性さえある。大衆消費社会の中で流行る文学は、そこに書かれている言葉が〈読まれるべき言葉〉であるか否かと関係なしに、たんにみなが読むから読まれるという本だからである。だが、それは確率的には、つまらないものが多い。それは、多くの場合、ふだん本を読まない人が読む本であるし、ポップ・ミュージックと同様、流行に敏感に反応するのを、まさに生物学的に宿命づけられている若者(中略)のあいだで流行るものだからである。

 『ハリー・ポッター』が〈読まれるべき言葉〉であるか否かはともかくとして、要約すれば、「売れるものに価値はない」ということになろうか。水村の言う〈読まれるべき言葉〉の中には、例えば売れているサブカルチャーなどは全く入らないようである。そうなれば、どんなものを〈読まれるべき言葉〉と考えるかによって、日本語が「亡びる」のか「亡びない」のか、意見が分かれることになりそうだ。
 水村は、さらに日本語を亡びから守るために、学校教育の中で、「日本近代文学」を十分に読ませることを提唱するが、高校の国語教師である私としては、理想はわかるが、現実は……と言いたくなる方法論であったことも、付け加えておきたい。

Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.