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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

日本文学が亡びるとき―未来ではなく現在の問題として
text 川本千栄

岡井隆 だから、文学は滅びました。短歌は滅びました。(…)滅ぶのではない、もうすでに滅んだのだ。過去形。だけれど、それはあの短歌が滅んだので、この短歌はまだ生きているという、そういうことなのではないかな。(…)まあ、小説だって完全にそうでしょう。われわれが知っている小説は今やないのです(笑)。
        (「語る短歌史15文学の変質と東京移住」『短歌』2008年7月号)

川野里子 ただ、今我々にとってリアルなのは、近代リアリズムの賞味期限切れというものではないか。
                (吉川宏志評論集『風景と実感』批評会報告記)

 水村美苗著『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房2008年)が話題である。ネットのブログでも賛否両論、それゆえに大いに売れているとも聞く。
 水村の主張の大意はこうだ。グローバリゼーションが浸透し、かつインターネット全盛の時代である現在において、英語はかつての〈普遍語〉であるラテン語に近い位 置を占めている。学問は英語でなされなければ世界的には通用しない。今後、「叡智ある人々」は学問だけでなく文学においても英語を選択するようになるだろう。その時、日本語は亡びてしまう可能性が高い。それを防ぐためには、英語教育を縮小し、国語教育にもっと力を入れるべきだ。それも日本近代文学を読み継がせることを主眼にすべきである。
 注意しなければならないのは、水村の言う「日本語が亡ぶ」というのは、ユネスコが「現在地球上にある約6700の言語のうち、少なくとも約半数が今世紀中に絶滅する危機にある」と述べているような「絶滅する」とは違うという点である。言語として存在していても、読まれるべき文学を持たない言語に堕する、というのが水村の言う「亡びる」ということなのだ。
 英語が世界の〈普遍語〉として君臨する世紀において、日本語と日本文学がグローバリゼーションの波の中で生き延びていくために、もっと日本語を教育の場で大切にすべきだ―このあたりの主張はよく理解できる。
 しかし問題なのは、英語に圧倒されて将来日本語が亡びることを危惧しているようでありながら、実は水村自身は現在の日本の文学に対して、もう亡びたも同然のような感慨を抱いていることだ。 例えば以下は、彼女も全面的に賛成している友人の発言と、それに続く彼女自身の現代文学の印象である。

(…)「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていて―なにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない。」(…)
(…)「荒れ果てた」などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。(…)

 このように水村が嘆くほど日本の現代文学は衰退しているらしい。さらに、論全体を通 して彼女の主張の根底には以下のような感情が流れている。

(…)実際、今、本屋に入り、そこに並んでいる本を目にし、「文学の終わり」を身をもって感ぜずにいることはむずかしい。それでいて、広い意味での文学が終わることはありえない。(…)

 乱暴にまとめれば、近代文学はいいが現代文学は全然ダメだということだ。仮にそうだとして、では近代から現代に至る過程で、文学が衰退した原因は何か。水村は、科学の急速な進歩・〈文化商品〉の多様化・大衆消費社会の実現、の三つをまず原因として挙げ、見開き3ページほどでざっと説明する。そして真の要因として、「英語の世紀に入ったこと」を挙げて詳細に説明するのだが、それは全て今後の予想でしかない。今、なぜ現代文学が衰退しているのか、という説明にはなり得ていない。
 もう一つの問題は、近代文学と現代文学の境目はどこかという問題である。この本の中でははっきり線引きされておらず、大雑把に二葉亭四迷から百年が読むべき近代文学とされている。「浮雲」の第一篇が出たのが1887年であるから、1987年以降あたりの作品に水村は「文学の終わり」を感じているらしい。しかしそれでも甚だ曖昧である。「ひたすら幼稚な風景」とは、今本屋に並んでいる本とは、何だろう。最近流行のケータイ小説か、村上春樹や吉本ばなななども入るのか、あるいは大江健三郎も入ってしまうのか。さらにこれを短歌に当てはめると、それはケータイ短歌だろうか、穂村弘や俵万智なども入るのか、さらに佐佐木幸綱や岡井隆などはどうか。彼女が読むべき詩歌として例に挙げているのは、萩原朔太郎と北原白秋だけである。
 しかし、彼女と同様に、どこかの時点で文学は変質してしまったと感じている人々がいる。例えば冒頭の岡井隆の発言である。岡井の言うように「あの短歌」が滅びたのだとして、この場合何が滅びたのだろうか。千年以上続いた「うた(和歌・短歌)」が滅びたのだろうか。それよりもむしろ川野里子が「近代文学の賞味期限切れ」といったように、明治以降、隆盛を極めた近代文学の内の近代短歌が滅びたと言いたいのではないだろうか。
  このような言説がいくつもある今、文学は変質したのか、そうならば、なぜ、いつ、どのように変質したのか、という事を考える時期に来ているのだと思う。「文学の終わり」に「幼稚な光景」が繰り広げられている、と見なす作者の著書がベストセラーになった。その「光景」には今現在の歌人たちも含まれている、という前提のもとに考えてみる必要がある。それには英語という仮想敵を一度廃して考えてこそ見えてくるものがあるだろう。

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