「風通し」の風通し
text 松村由利子
斉藤斎藤を中心に雑誌「風通
し」が刊行された。巻末に「一号ごとのメンバーで一号ごとに企画を立ち上げる、一期一会の「そのつど誌」である」と説明されており、これを読んだだけでも、かなりわくわくさせられる。
「その1」のメンバーは九人。最年長が一九六八年生れの我妻俊樹で、最年少は一九八七年の野口あや子。今年『人さらい』で奇妙な浮遊感を見せた笹井宏之がいるかと思えば、『天の腕』の手堅い表現で現代歌人協会賞を受賞した棚木恒樹がいるというふうに、多彩
なメンバーである。所属結社は「塔」「短歌人」「未来」「音」など。
初回の企画は連作歌会だ。九人がそれぞれに連作をつくり、ネット上の掲示板で一週間に三作を批評し合うという方式で、誌面
は、九人の作品と、ネットでのやりとりがそのまま記録された「連作歌会」から成っている。
超結社のグループによる雑誌自体は珍しくない。しかし、「風通
し」は「一号ごとのメンバー」「一号ごとの企画」という方式によって、タイトル通
り風通しのよさを最も重要視した雑誌のようで、そこに大きな魅力と可能性を感じる。
短歌結社に入って研鑚を積むよさは重々知りながら、ちょっとした息苦しさを感じることは誰にでもあるのではないだろうか。歌壇そのものが、いわばバイオスフィアのような閉鎖空間で、「どこまでこの状況を維持できるか」といった危機感、閉塞感に満ちた世界だと思う。「風通
し」の、わずかな淀みも許さないように「そのつど」心機一転を図ろうとする心意気は潔い。
そして、もう一つ愉快だったのは、この雑誌が示したインターネットの可能性である。「風通
し」の相互批評は、一つの連作について一週間という短い期間に、一人が何度でもその掲示板に書き込む形式で行われた。この即時性こそネットの強みであり、新しい批評の可能性を示している。
歌をつくる者にとって、批評はひとつの指標である。信頼できる人による批評のことばは、大きな手がかりとなるが、実際問題として、自分の作品について納得いくまで入念に批評される機会というのはあまりない。結社の歌会には、顔の見える関係のよさがあるが、多くは一首評だし、その場の参加者による雰囲気、後の人間関係への慮りというものにも左右される。メンバーだけに限定された「風通
し」の掲示板では、相手の正体はわかっているが、「友達」というほどの密接な関係に(恐らく)ないところが、たいへん絶妙な距離である。掲示板で展開された批評は、あらかじめ活字になることを前提に記されていることもあり、言いっ放しの無責任さはなく、忌憚のない誠実さがある。顔を合わせないというネットの利点を巧みに利用した方式といえる。また、書き込みが一週間に限定されたことで、参加者の熱が保たれており、その熱気は確実に読む方にも伝わってくる。
例えば、上野動物園からパンダのリンリンが逃げ出したある一夜、というストーリー仕立てで石川美南がつくった意欲作「大熊猫夜間歩行」について、野口あや子は「詞書が多すぎて、歌をストーリーに捧げてしまっている部分が大きいのではないか」、永井祐は「ストーリーの状況に応じた題詠をさくさくとこなしていくような印象」と厳しく批評。棚木恒樹は、物語の中に歌を作る不自由さを石川が試行した意義について、「プライベートな個別
な私」の感情からの離脱ではないかと指摘する。そのことによって「特殊な私の顔」を入れず、「同時代的に共有される閉塞感とか孤独感」を表現しようとしたのでは、という棚木の見方には、とても共感した。
倍速でご覧下さい(かなしみは)コロナビールのレモンの落下
濡れた髪大きな旗で拭きながら放つておいてほしい、時には
石川美南「大熊猫夜間歩行」
「連作歌会」の生き生きとしたやりとりを読むと、大人数の行儀のよい歌会や、数カ月遅れの総合誌の批評が物足りなく感じられる。数人が批評を重ねてゆくうちに、問題点や読みの新たな可能性がはっきりしてくるのは非常に指摘的だ。「連作歌会」の記録にはメンバー各自が書き込んだ日時まで記されており、それぞれ忙しい中、何とか時間を捻出したことも読み取れ、臨場感があふれている。「むきだしの”私”感いっぱいの歌」「作者萌え」「ほっとくと読みって巧緻化する」など、話しことばが生きているのも、この「歌会」のよさだろう。
「風通し」次号では、斉藤斎藤の他のメンバーは全員入れ替わりになるという。それ以降は未定とのことだが、どんな風通
しのよい誌面が展開されるか楽しみでならない。
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