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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

「風景」と「わたし」
text 広坂早苗

 青磁社のホームページにUPされた『風景と実感』批評会の報告記(なみの亜子)を読んだ。すでに数回前の週刊時評で、川本千栄さんが批評会についてのコメントを寄せていたが、是非参加したいと思いながら都合により諦めた会であったので、全容を知りたく、興味を持って読んだ。
 報告記は、花山周子によるインタビュー、川野里子・松村正直・東郷雄二の3氏による鼎談ともに、要旨が簡潔にまとめられていてわかりやすい。鼎談ではやはり、川本さんの指摘にもあったように、穂村弘の論点とどこが重なりどこが違うのか、という分析で議論が立ち止まっており、その先へ進んでいかないもどかしさを覚えた。例えば、

 吉川さんの考えている<わたし>は、歴史という時間軸と地理という空間軸の交点でもって成立する<わたし>。これは古代的でも現代的でもない、近代的な<わたし>、もしくはその延長線上にある。対して穂村さんの<わたし>は、歴史性が決定的に欠如している。それを決して<わたし>に反映させない。歴史と<わたし>が切れているからだ、という意識があるからではないか。それが、現代的な<わたし>なのだろう。(東郷)

という発言などは、言いっぱなしで終わりにするのではなく、さらに議論を進めてほしいと思った。近代的な<わたし>と現代的な<わたし>という二項対立は、本当に言い得ているのか、仮に言い得ているのだとしたら、<わたし>を近代的な<わたし>と捉える吉川の立場が、現代短歌を理解する上でどのように有効なのか、あるいは有効でないのか、という疑問が湧く。議論がさらに深まっていくところを聞きたいと思った。
 東郷の発言に対し、松村が、吉川の「身の回りの自然や季節が生み出している空間の肌触りをとらえることこそが<わたし>を回復するために必要な鍵だったのである」というフレーズを引き、

 最近<わたし>の捉え方が小さくなってきた感じは僕にもある。昔は地域や家族や共同体に<わたし>というものが散らばっていた、充満していたと思うのだが、自分は故郷を<わたし>のある場所とはもう感じられないし、かろうじて自分の皮膚のなかにある感じ。それを取り戻す方法論を吉川さんが提示しているわけだが、これは吉川さんの宮崎という故郷も関係してくるんだろうな、と思う。人間のものの考え方は案外そういうところに規定されているし、逆にいうと自分は東京で生まれ育ち、草花とか馴染まない。もっと人工的なものの方に、リアルを感じる。

 と応じている。さらに川野が、

 吉川さんの、そういう素朴な<わたし>に問いを一回戻すんだ、という辺りは私も面 白く読み、実はそこんところは近代が不十分なまま素通りしてきたところかもしれない。文化装置ということから言えば、言葉というものは時代に取り込まれながらパワーを発揮してきた。現代の<わたし>は皮膚感覚に収斂 されるような、ぽつんとした点として語られることが多いが、そうではなくて、時代に組み込まれるように、編み込まれるようにして在る<わたし>は、あまり語られてこなかったかもしれない。

 と発言している。『風景と実感』の中で私の印象にもっとも残っているのは、「風景が、自分の外部であることを超えて、<私>の延長となってしまう不思議さ」「オリジナリティ=<わたし>ではないのだ。個性的になろうとして新奇な表現を追い求めなくても、<わたし>は自然に滲みだしてくるものなのである(中略)身めぐりの風景をオーソドックスに詠む。そのことの大切さを再認識したい」「たとえば、自分が愛着を持っていた山が開発で崩されたりすると、自分も傷ついた感じを受ける。それは決してセンチメンタリズムなどではなく、自分の愛する山にも<わたし>が生じていたために、山が失われると、<わたし>の一部がほんとうに死んでしまうのだ」等、「風景」と「わたし」の関係を論じた部分であったので、風土性の問題も交えて、さらに議論が深まると面 白かったのではないかと感じた。私自身は、この部分の吉川の論に同感である。現代短歌に失われてきている、ゆたかな広がりのある<わたし>、他者とつながることのできる<わたし>、自分自身の中に閉塞しない<わたし>を取り戻す方法として、「風景」をキーワードとしたところに、吉川の慧眼を感じたのである。私自身、新奇な表現を際限なく追い求めることに興味が持てなくなっており、これまで積み上げてきたものの上に立って、<わたし>を回復しようとする吉川の主張に同意する。
 松村は、吉川の故郷が宮崎であることと、「身の回りの自然や季節が生み出している空間の肌触りをとらえることこそが<わたし>を回復するために必要な鍵だった」という主張を結びつけて、「人間のものの考え方は案外そういうところに規定されている」と発言している(のだと思われる)。しかし吉川が、佐藤佐太郎が繰り返し舗装道路や街路樹といった新しい人工的な風景と自己の一体感を歌った例を挙げていることから考えると、松村は「身の回りの自然や季節が生み出している空間の肌触り」を狭く捉えすぎだったのではないだろうか。
 但し、批評会はその場にいて、実際の発言、話の流れを聞いていないと、一人一人の話者の発した言葉の意味を、十分に理解できないことも多い。私も報告記を読んだだけで、十分に理解せずに書いている部分があるのかもしれないとは思う。
 『風景と実感』には、未完成な部分、問題提起で終わっている部分も多い。それだけに、自分の問題としてさらに考えていきたいと思うことも多かったのである。

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