詩誌「びーぐる」創刊
text 松村由利子
十月、詩誌「びーぐる」(季刊、澪標)が創刊された。
高階杞一、細見和之、山田兼士、四元康祐の四人が編集同人で、創刊号には谷川俊太郎、小池昌代らの連載のほか、高橋睦郎、田口犬男らの作品、「詩の現在そして未来」という特集が掲載されている。特集の中では「創刊記念座談会」が特に面
白い。
ドイツ在住の四元を除く三人の編集同人による座談会なのだが、外から見た短歌というものが分かって愉快だ。山田は「短歌とか俳句は相変わらず結社が元気。いろんな新しい実験的な試みをする若い作家も出てきている。枡野浩一さんが仕掛けた「かんたん短歌」なんて色々おもしろい若手がでてきていますよね。つまり、詩歌そのものはすごく盛んに書かれているんです」と評する。
さまざまな詩歌のジャンルということで、細見はアジアの文学者が集まる企画で韓国へ行って驚いた話をする。
小説家と詩人とをまったく同じように声をかけて呼んでいる。日本では文学者の集まりと言えばまず小説家ということになるところがあるでしょう?日本の場合は対等な呼び方はなかなかしてもらえない。日本の場合は詩人がマイナーで、小説家にならないとメジャーになれない、そういう世界ですからね。(中略)
それで気になるのは、この「びーぐる」が詩、詩、現代詩、現代詩と閉じないほうがいいのではないかということです。それこそ小説が詩の世界を見ないから詩も小説を見ないというのは、すごく狭い了見だと思う。
この発言を受けて、高階は「詩と他領域、昔はあったんですよね。詩人と画家とか、互いに刺激しあって吸収しあって高めあって」と言い、「びーぐる」では短歌時評、俳句時評のほかに、美術批評のようなものも取り入れてはどうか、と提案する。
「びーぐる」の短歌時評を担当するのは佐藤弓生。かつて第一歌集『世界が海におおわれるまで』と、第二詩集『アクリリックサマー』(いずれも沖積舎)を同時に、同じ体裁で出版するという、とてつもなくカッコいいことをした人である。目配りの利いた時評になりそうだ。初回は「短歌研究」七月号の座談会「若い歌人の現在」や介護詠を取り上げた。
細見の「閉じない」という言葉に、「俳句」に連載されている藤原龍一郎の「現代俳句時評」を思い出した。毎号とても充実した内容だが、たまたま十月号では、詩人、エッセイストとしても活動している八木忠栄の句集『身体論』を取り上げていた。冒頭に、斎藤茂吉が自らの歌業を「業余の吟」と称したことを記すあたりが憎い。八木について「時に詩人であり、時に落語に関するエッセイストであり、時に俳人」としつつ、藤原は「表現者としての八木忠栄のいちばん新しい仕事」として最新句集を受け止めればよいのだと結論する。
そういえば、月刊「歌壇」も数年間にわたって小池昌代の詩の連載や、詩と短歌のコラボレーションを試みた。あれは毎回とても刺激的だった。
座談会で細見は重ねて言う。
せっかく「びーぐる号」に乗ったけどみんな詩しか発見してないじゃないかというのは問題だと思う。新しい詩の領土というのは一見詩とは縁遠いものの中にあるというのは当たり前、常識ですから。詩しか読んでない人間には絶対詩も読めないです。宮沢賢治もそうですけど、ものすごい幅の関心がありますよね。それをひとつの形に圧縮したものが本来の詩なのであって、詩だけで詩は書けない。その当たり前の感覚というのをもっともっと取り戻す必要があると思う。
この発言の「詩」を「短歌」に置き換えても、全く違和感はない。
「びーぐる」は、ダーウィンが乗り込んだ測量船の名前である。進化論の構想を得るきっかけになった船にちなみ、既成の枠を外れた新たな発見の生まれる雑誌にしたいという。短歌も現代詩も、小さな船のようなものだ。ことばの大海原に漂いながら、他の船の動きも見ておかなければいけないな、と思う。
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