自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内

週刊時評

大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ

好評既刊一覧

既刊書籍一覧

短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー

自費出版のご案内

短歌界リンク

掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




批評用語の持つ力
text 川本千栄

 2008年9月27日、京都で行なわれた、吉川宏志評論集『風景と実感』の批評会に行ってきた。評論集の批評会は機会が少ないことに加えて、限られた時間内で分厚い内容の一冊をどのように批評していくのか、進行が難しいであろう、と思いつつも、期待するところも大きかった。
 批評会のメインは鼎談であり、メンバーは、「塔」の松村正直と、「かりん」の川野里子、京都大学人間・環境学研究科教授で短歌評論サイト「橄欖追放」(http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/)を運営する東郷雄二であった。松村は、先行の篠弘や佐佐木幸綱の評論を挙げ、吉川の評論のそれらに重なる点、新しい点を指摘した。東郷雄二は、吉川の実感を保証する身体性と視点について、認知言語学の立場から論じた。川野里子は穂村弘の『短歌の友人』と吉川の『風景と実感』の類似点・相違点を通 じて、それぞれの評論集が現代短歌の読みにもたらす意義を語った。
 三人の論はまずまず上手くかみ合っていたし、色々面白い問題点も出されたのだが、私には全体的に今一つ消化不良感が残った。その主な原因は川野里子が、吉川の評論を常に穂村と対峙する形で語ったからではないかと思う。川野曰く、吉川と穂村は現歌壇の二つの大きな潮流のそれぞれオピニオンリーダーとして対峙的に扱われることが多いが、意外に問題としているところは共通 なのではないか。評論においては、吉川はそれを「実感」と呼び、言葉で表現された自然・風景に沿って、作者の身体性を感じ取ろうとするが、穂村は、「棒立ちの」「フラットな」言葉で表現された、「ただ一度きりのリアル」な歌を評価する。吉川の論の良さは、評する歌に時間・空間が含まれるときに発揮され、穂村の場合は時間を捨象して、「この瞬間」に限った歌を評する時に良さが発揮される、というのが川野の分析の大意であったと思う。
 こうした二項対立は非常に論点を明確にするし、なるほどという感覚を聞く者に持たせる。確かに吉川も穂村も同じものを指して、一方はそれを実感と言い、他方はそれをリアルと言っているのだという指摘は腑に落ちる。ただ、今回私が問題だと思った点の一つは、議論がそこから奥へあまり行かなかったことである。その類似点・相違点を踏まえた上で、さて吉川の論は近現代の短歌を読み解く上でどこまで有効に働くのか、という点に話が及ばないと『風景と実感』の批評会としては食い足りない。
 また、二項対立に先立つ話ではあるが、吉川と穂村では批評に使う用語にかなり隔たりがある。穂村は批評用語を盛んに造語する。今まで使われている用語では自分の言いたい事を表せないからかも知れないのだが、論を読むものは、穂村の作る用語の表さんとするところをまず探ることからしなければならない。それが「圧縮と解凍」「棒立ちのポエジー」などならまだ何とか私も分かるのだが、「酸欠世界」や「愛の希求の絶対性」など多義的なものになってくると、何を指しているのかが曖昧すぎて理解に苦しむ。
 川野里子がどこまで「酸欠世界」といった主観的な批評用語を受け入れているのかは分からない。しかし、川野は、角川「短歌」7月号の時評「記憶の瓦礫と透明な瓦礫」において加藤治郎や穂村弘を論じる際、私たちの周囲や内部に透明な見えない瓦礫が広がり始めている、と前提した後、〈加藤や穂村の作品は、見えない瓦礫を、ここだ、と「指さす」ことそのものだ〉という評をしている。「透明な瓦礫」は「酸欠世界」と同じ程度に私には意味不明である。多義的な喩を批評用語のように使うことの危険性を憂慮する。それが現代短歌批評の一翼を担う川野里子であるだけになおさらである。
 もちろん、あるキーワードを使うことによって、問題が明確になることもある。しかしそのキーワードが多義的に解釈される場合は、それを使う人それぞれが違う含意を持って使ってしまうということも大いにあり得るだろう。造語的に作られた「酸欠世界」や「透明な瓦礫」といった最近の語は言うに及ばず、実は「写 生」といった基本的な用語ですら、短歌の批評においてこれが衆目の一致する使い方だというものは確定していないのが現状だ。
 私が『風景と実感』という評論集の中でももっと脚光を浴びていいと思うのは、「風景」「実感」といった誰もが敢えてキーワードにはしないような基本的な用語に焦点を当てた点である。吉川は例えば、「実感」という語がそもそも子規の時代はどう使われていたのか、与謝野晶子がそれをどのように大きく変えたのか、といった、時代を通 しての言葉の変遷を検証している。あるいは、「風景」という、批評用語とも意識されていなかった日常用語にスポットを当てて、「見る人が風景をつくりだす」「風景とは、一見普遍的なもののようであるが、じつは時代状況に深く影響されている」という洞察に読者を導く。人が当たり前と思っている事柄や用語の裏に、当たり前でない気付きを見出す、こうした吉川の力に、もっと読者である私たちは意識的になる必要があると思う。
 私たちは言葉を使い、言葉を操っているつもりでいるが、はたしてそうだろうか。どんな思考も言葉無しでは成り立たない。適切な名詞が無ければ、その物の存在にも私たちは気付かないものなのだ。だから論をリードしようという意識のある人が、目の開かれるような用語を思いつくことだけに腐心しても不思議ではない。
 しかし、それで却って物が見えにくくなることもあるだろう。わかったような名付けは、目の開かれるような思いを抱かせる反面 、それに当てはまらない状況を見逃しやすくする側面も併せ持つ。言葉を操っているつもりが、逆に言葉に思考が囚われてしまうのだ。今、私たちに必要なのは、目立つ批評用語を創出することではなく、「風景」といった一見ありふれた用語にどれほど読みの可能性があるかを見出そうとする努力ではないだろうか。
 『風景と実感』を読んで私が繰り返し考えるのは、そういったことなのである。

Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.