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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




「呼びかける力」を持つ歌とは
text 広坂早苗

 「短歌研究」10月号は、現代短歌評論賞の発表である。受賞作は今井恵子の「求められる現代の言葉」。現代社会に特徴的な「コミュニケーションの不全感」が文芸作品に与える影響と、現況における短歌の可能性を、「相聞」というテーマに沿って論じた文章で、全体として面 白く読んだ。筆者の今井はすでに多数の歌集・歌書を持つ論客であり、受賞者名を見て意外に感じたのは私ひとりではないと思うが、年齢やキャリアに拘ることなくチャレンジする姿勢は小気味良かった。
 今井は相聞歌を「他者へのコミュニケーションをはかる心情を主題とした歌」とやや広義に定義する。そして『みだれ髪』の二首と小島ゆかり『憂春』の二首を比較し、かつて「モノを直接つかまえようと」していた言葉が、近代百年の中で、「モノに対して程よい距離を保持しようとする」言葉へと、方向性を変えてきたのではないかと分析する。特に転機となったのが、一億総中流と言われた八十年代で、その時とりわけ女性の歌(俵万智と香川ヒサの歌が例に挙がっている)において、「理知や意識が、どろどろとした情念や出口のない抑圧感から作品を解き放った」代わりに、短歌は「作者の言葉が直接対象に働きかけるような能動性」と「摩擦や葛藤や矛盾に身を捩るような『湿った叙情』」を失ったのだとする。その結果 生まれたのが、例えば今橋愛の「主観的心情を一方的に吐き出したような」「まだ声にさえならない作品以前を作品化した」歌や、宗教学者の山折哲雄が「歌の調べの乾燥の度合がここまできたか、と驚」いたという新聞歌壇の投稿歌なのだと言う。その上で今井は、近代短歌史が追求してきた「リアリティ・実感・現実感などと語られる言葉の手触り」をなお重視し、「呟きや呼びかけが、自己をこえて外部に働きかけ接触し葛藤し、『わたし』でも『あなた』でもない新しい何かが生まれなくてはならない」と主張する。説得力のある論理展開であり、特に八十年代の女性歌人の理知的な作品が転機となったという指摘は、その頃作歌を始めた自分の記憶を振り返ってみても、納得のゆくものであった。
 しかし、疑問に思った点もある。特に結論部分には頷けなかった。選考委員の一人である川本千栄氏も同様のことを述べているが、例として挙げられた穂村弘の「ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。」(『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』)が、「他者へと呼びかけ、現代の言葉のあり方を示している」歌とは、どうしても読めないのである。今井はこの歌について「モノローグの世界から外へ出ようとする能動性が感じられる」と記しているが、形は呼びかけであっても、夜更け力なく「カップヌードルの海老」に語りかける、孤独な、コミュニケーションをあきらめた人物のモノローグとして読むほかないのではないだろうか。
 「松の林を過ぎる甘さや『かの子さーんかの子さーん』てば、いずこに潜む」(佐伯裕子『ノスタルジア』)も、他者への呼びかけのある歌として挙げられている。「『かの子さん』を探す哀切な声の響きは、一首の中に確かに人間がいる、という手触りを残す」という指摘に異論はないが、「ハロー 夜」のように呼びかける形の言葉を使ったり、「かの子さーん」のように直接話法を使ったりした作品が、必ずしも「他者へ呼びかけ」ていることにはならないと思うし、逆にそのような形を取っていなくても、他者へ訴えかける「肉声」を持った作品はあるはずだと思う。より客観性のある「新しい相聞歌」の提示があれば、論文全体の説得力も増したのではないか。
 デジタル化の著しい社会で、呼びかける力を持つ歌が生まれる契機は、どんなところにあるのだろうか。今井が言うように、この問題は、近代短歌史が「求めては隘路に入り込み、また別 の袋小路に行き当たりというように歴史を重ねてきた」問題であるが、では「君に棲む樹木のこころビール瓶かたむけて今日のたそがれを注(つ)ぐ」(小島ゆかり『憂春』)という一首は、相手に直接呼びかける力がない(と今井は言う)から魅力がない歌なのか、という問題も含めて、「新しい相聞歌」がどのようなものであるべきか、考えていきたいと思った。

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