二冊の空穂論
text 広坂早苗
今年の上半期に出版された、二冊の窪田空穂論を読んだ。一冊は西村真一著『窪田空穂論』(短歌新聞社)、もう一冊は『窪田空穂の歌』(角川学芸出版)である。引用されている資料などに重なるところはあるが、全く異なったスタンスで書かれた二冊が、それぞれに面
白かった。
『窪田空穂論』の著者はもともと西行の研究者。松本に職場があったことが機縁となり、信州の歌人を研究することになったのだという。松本市にある空穂の生家へ幾度も足を運び、実地踏査を繰り返し、また空穂記念館設立の事業にも関わるなど、空穂の魂を育てた松本の地において綿密な調査を重ねている。それに基づいた考察と、研究書らしい丁寧な資料分析が、この本の特長である。
例えば「窪田空穂の北アルプス登山の歌」という章に、こんな一節がある。
『濁れる川』所収の北アルプス登山の歌八十首の中には、「さみし」という形容詞が八首の歌に用いられている。(中略)
徳本の峰越えかねて息づけば頭に近く雷(はたたがみ)鳴る
うづくまりあれば恐れに死にぬべみ雨あるる中の徳本を攀づ
岩魚止めから徳本峠への道は、急な登りで、徳本峠越えの登山者が最も難儀するところである。あまつさえ、空穂らは夕立ちに逢って行きなずんだ。(中略)
徳本峠を越えて、更に上高地へ向かう道は、鳥の声も聞こえず、ただ木のみが生い茂っている静寂の世界であった。
現身の人の来るを押し返し木根木立ども住める境か
木立のみ生くべき国に入りや来し行く行く心さみしきぞわれ
老木が吐ける息かもひやひやとわが顔打つにさみしくなりぬ
右の歌における「さみし」という感情は、現身の人が、人の世ならぬ
異境に入り来ったときの寂寥感である。
空穂の登山ルート、山道の様子、当日の天候などを詳細に調べ、それらをふまえて作品の底にある「異境に入り来ったときの寂寥感」を指摘する。こうした丁寧な分析が随所に見られ、興味深い。
もう一冊の『窪田空穂の歌』は、岩田正以下7人の「かりん」会員による空穂論である。「一首一首をふかく考えて、到達してゆく歌人論、つまり歌の生れてくる、そのモチーフをさぐり、作者の思想・主体的条件をあきらかにしてゆく、そういう歌人論」(あとがき)とあるが、評者ひとりひとりのアングルが個性的で、斬新な感じがした。
例えば、「空穂の青春」の章を書いた日置俊次は、学齢期に始まる空穂の「歩行体験」(往復16キロの道のりを松本市内まで徒歩通
学する)の重要性を、以下のように指摘する。他の部分と読み合わせて、なかなか説得力のある考察だと感心した。
最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり
これは遺歌集『清明の節』に収められた歌である。(中略)空穂は病臥していたが、この歌の「生きる」という動詞は「歩く」と置き換えて読むことが可能である。最終の息をするときまで、子供の頃のように、歩き続けよう。臥しながら空穂は、自身の魂にそう囁いているのではないか。(中略)実体験にひたすら裏打ちされた「歩く」感覚が「生きる」ことそのもの、あるいは人生の味わいそのものへと精錬され、昇華していく経緯を見落すべきではない。
昨年は、武川忠一著『窪田空穂研究』(雁書館)および岩田正著『窪田空穂論』(角川学芸出版)が出版され、窪田空穂に対する関心が、にわかに高まっているように見える。今年の二冊もまた、空穂への関心を呼び起こす、読みごたえのある好著だと思った。
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