「現在の自分」を起点として詠むこと
text 広坂早苗
角川『短歌』六月号の時評で、加藤治郎が、笹公人の『抒情の奇妙な冒険』(早川書房)を取り上げている。また、『現代詩手帖』六月号には、黒瀬珂瀾による同書の書評が掲載されており、共に興味深く読んだ。
『抒情の奇妙な冒険』は、『念力家族』『念力図鑑』に続く笹の第三歌集。「ハヤカワSFシリーズJコレクション」の一冊でもあり、広いフィールドで活躍している作者だとわかる。あとがきに、「本歌集は、現在四十代中盤にあたる世代の人間を主人公(私)に設定した。テレビも漫画もアニメも一番イキがよかった時代に青春を過ごした世代である。自分が生まれていなかった時代や幼少時代にあった出来事をなるべくリアルに詠むためには、こうするのが一番だと考えた」とあるように、歌集の前半部は、昭和四十年代・五十年代を中心とするサブカルチャーに彩
られている。昭和四十年生まれの私は、テレビや漫画に通り一遍の興味しか持たなかったので、ぴんと来ない描写
もあるが、歌集に次々と現れる昭和の小道具には、なつかしさを感じることが多かった。現実の笹は昭和五十年生まれ。無論自分の体験を歌ったわけではない。彼が短歌に再現したのは、書籍や映像、音楽などの形で、他者の手によって保存された「昭和後期」である。
ゆうぐれの商店街を過ぎてゆく子供・自転車・豆腐屋の音
教科書のちらばる夜の交差点 口裂け女ふり向きにけり
夕ぐれの商店街ですれちがうメトロン星人ふりむくなかれ
一首目は、通俗的と言ってしまえばそれまでだが、ある種のなつかしさを感じさせることも確かだろう。二・三首目は、「口裂け女」「メトロン星人」が登場し、過去のある時代の現実とフィクションがないまぜになった面
白さが創出されている。短歌作者以外の読者を獲得したのは、こうしたなつかしさ・面
白さゆえだと思うが、一首の短歌として読むと、物足りなさを感じる。一言で言えば、素材の持つ時代性に寄り掛かり過ぎた作品だからだ。舞台の背景は昭和後期の多彩
なスケッチだが、背景だけがくるくると変化して、その舞台に立つ主人公がいない。設定された主人公は、のっぺらぼうだ。そんな印象を受ける。
大きなる手があらわれてちゃぶ台にタワーの模型を置きにけるかも
スプーンを片手に家族あつまれり四本足のテレビの前に
16文のリングシューズが鎮座する昭和時代のピリオドとして
笹のこれらの作品を取り上げて、加藤は「昭和時代の群像と事物を織り込むことで、多くの読者のノスタルジーを刺激する。大凡の歌集よりも、読者に近いところで成立している。それが、ポピュラリティーの鍵だ」と言う。ポピュラリティー(人気、大衆性)を否定するつもりはないが、作中に屹立する「私」を欠いたこれらの作品が、加藤の言う「現代短歌とポピュラリティーの幸福な状態」を体現しているのだろうか、疑問に思う。
黒瀬は、笹の作品について「特定の時代感覚を表現することで、テクストと読者の間に『連帯感』を演出する。笹にとって『素材』とは、時代のメルクマールなのだろう」と述べ、「『連帯感』の根源を、特定の時代ではなく現代性に求めている」作品を、「まったく重層的ではない」と否定する。確かに黒瀬が例示した作品はよくないと思うが、歌集後半部の「懐かしの昭和へタイム・リープ(あとがき)」していない作品、つまり「現在の自分」を起点として詠んだ歌の方が、作者の批評眼を際やかに感じるという点で、評価できると思うのだ。例えば次のような作品である。
渋谷フットケア倶楽部の前に立ちマタギの踵のぶ厚さを思(も)う
ごろ寝するニートの上で燃えあがる「はたらくおじさん」の熱気球
虫食いの過去帳にあわれ堀右衛門打ち首とあり誰の前世か
帯文に山田太一が「笹公人は『他人のノスタルジイ』を手に入れた」と記している。「他人のノスタルジイ」に届く想像力は文学の源泉であるが、現在の自分という起点を明らかにして、過去を、現代を詠む方が、作品に説得力が生まれるのではないかと私は思う。
川本千栄氏・松村由利子氏と共に、「週刊時評」を担当することになりました。二年間、よろしくお願いいたします。
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