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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




二つの相互批評から見えてくるもの
text 川本千栄

 「かりん 三十周年記念特集号」は二〇〇八年五月号六月号にまたがる分厚い分冊であり、一方ならぬ 熱意を感じた。作品・評論共に内容が濃いのだが、特に六月号所載の座談会が面 白かった。タイトルは〈「かりん」の現在と未来〉、出席者は安藤淑子・大井学・尾崎朗子・日置俊次・松村由利子・梅内美華子である。出席者がそれぞれお互いの作品を選歌して、その歌のどの部分が良くてどこが悪いのかを、その作者の歌作上の特質なども鑑みながら相互批評する、という趣旨である。
 その中で、梅内美華子の「満ち満ちて李朝白磁の大壺はおのづから割れるときを夢見る」という歌の解釈を巡って、「われ」について少し議論が交わされている。

松村 細かな部分ではなくて「李朝」というような言葉があって、遠い過去から今に至るまでの時間を読み込んでいる。またその「大壺」が自分であるという「われ」の提示の仕方が魅力的です。(…)詠う対象と自分と、非常にぴったりとくっつく感じがある。「なりかわり」という言葉がありましたが、ひしひしとその痛みを感じるという部分がないと、よい作品は作れないということを思わされます。
梅内 (…)皆さんは歌の中の「われ」、「主人公」、「主体」の振幅をどのように考えますか?私は自分の作品では割りとそういう振幅があると思っています。(…)振幅をおこさせるものとして(…)一番身近な他者との齟齬とか、生き難い世の中だと感じること(…)そういうものをそのままストレートにあらわすのではなく、わたしでいえば「満ちて満ちて割れたい、切れたい」みたいな。そういうモノに託す時に、自分を生で出すよりは美しいものが破裂するような危うさというか。そういうものに行ってしまうんですね、私の場合。それも「振幅」と思うんですが。
日置 それをストレートに言わない、「わたし割れちゃう」と言わないのが「かりん」だと思うんです。

 最初この歌に対して松村が、「大壺」は自分である、という解釈を述べた時に、私は腑に落ちなかった。大壺を擬人化して詠っている、というところまでは読めるのだが、それを「自分」とまでは取り切れなかったのである。松村の発言を受けて、梅内自身が少し作歌工房的なものも明かしながら、「自分」というものの振幅に触れている。これを読んで私も、「自分」を表現する時の振幅というものを作歌の場面 から納得することができたのである。
 歌壇では「私性」に関わる論議がここ数年盛んだが、「現実のわれ」と「虚構のわれ」との二項対立として捉える論や、社会の変化に伴い「われ」が揺らいできているという論、といった論が繰り返されていると感じる。しかし、歌を作る時に「自分」をどのように託すかといった作歌側からの、ある意味素朴な把握の仕方は、案外提示されて来なかったのではないだろうか。梅内の説明からは、歌を作る勢いが高まってうまく表現に乗った時の状況が、力を持って伝わってくる。作者が言語化することによって、実際の歌における「われ」の表し方を、他者も知ることができるのである。
 この記念号とほぼ同時期に、「未来」の加藤治郎選歌欄彗星集のメンバーが、年二回の歌誌「新彗星」を創刊した。「未来」は選歌欄ごとに大きく作風が違うので、「新彗星」の創刊は一つの新しいグループとしての言挙げだと言えるだろう。ニューウェーブの継承といった気持ちもあるのかもしれない。 ここでも若手が相互批評の鼎談を行なっている。タイトルは「私たちの向かう場所」、出席者は柳(※【編集部注】本来は「木夘」の字です)澤美晴・野口あや子・笹井宏之である。

野口 柳澤さんの社会詠は、ときどき「歌のための社会」という感じがして疑問が残る歌もあります。

サブウェイのサンドイッチの幾重もの霧に巻かれてロンドンは炎ゆ
                   (「未来」二〇〇五年一月号)

この歌なんかは、悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている、みたいな気がしますね。私はむき出し人間なので、想像力をかきたてられるよさ反面 、社会を歌うことに苦しんでいるのか、責任が取れるのか、みたいに問い詰めたくもなります。(…)
笹井 逃げないで書いてしまうと、新聞歌壇でよくみかけるような歌になってしまうような…。だからおもいきり修辞を駆使して、このようにしか詠えない自分を押し出している、ある意味、むき出しの歌ではないかな、とも採れますが…。
野口 (…)「歌う自分」にむき出しであって、「生きる」にむき出しでない気がするんですよ。(…)自分の「発想」ではなく、身体、感情と絡めて歌うのも大事じゃないかと。それはそれで閉鎖的になってしまうことがあるということも自覚していますが。
柳澤 私の場合、修辞で完成度を挙げようという意識はなくて、これはむしろ自分なりの写 実なんです。(…)ロンドン地下鉄テロに対する自分のイメージ映像を描写 した感じで、「写実」って言うと意味が違って混乱させるかな。

 野口が、悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている、とする点と、笹井が、逃げないで書くとありがちな社会詠になる、と指摘する二つの点は、現在の歌壇の社会詠にも言えることである。一首の問題点を論じることによって、その問題が彼ら自身のものとして鮮明になっていく経過を見ることができた。また、野口の、身体・感情と絡めて歌うという方法、柳澤の、自分の中の像を捉えて描写 しようとする方法は、作歌上、よく取り上げられてきたものである。が、自他の方法論を論じ合うことは、読者にとって非常に刺激的であったし、出席者自身にもそうだったのではないか。
 ただ、全体的に、歌の読みとしては淡いものが多い。「詩情のやわらかさ」「体温とか、かすかな息使いみたいなものは感じる」など印象は語られるのだが、語に即して読みを深めていける余地はまだかなりあると思う。
 偶然、結社の中の若い世代の座談会を続けて二つ読み、どちらも相互批評という趣旨だったことが大変興味深かった。得てしてわれわれは、短歌の新しい局面 を一気に開いてくれるような評論を待望しがちである。しかし、歌を実際に一首一首読んで、読みを積み重ねていくことの方が、実は今、大切なのではないか。現在、短歌関係誌上には「読み」論はあっても、実際に歌を丁寧に読んで評したものは大変少ない。短歌に関わる者同士の、歌の評の共通 言語化がもっとなされてもいいのではないか。今、歌の評が「バベルの塔」化している、という不安を、自分の中から少しでも取り除きたいと思うのである。

 大辻隆弘・吉川宏志両氏の後を受けて、広坂早苗氏・松村由利子氏と共に本時評を担当することになりました。今後二年間どうぞよろしくお願いします。

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