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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



生の豊饒感
text 大辻隆弘

 伊藤一彦の歌集『微笑の空』が、今年の迢空賞に選ばれた。個人的な感想をいえば、納得できる喜ばしい受賞だと思う。
 伊藤一彦の歌には、人間への厚い信頼がある。今回の受賞では、「老い」を歌った歌に非常なリアリティがあった。

九十歳の女(をみな)らつどひ語りをり老後をいかに過さむかなど
おつぱいを女性職員に揉んでもらひ情をしのげる八十三歳

 短歌の世界において、老いというものは諦念や静寂とともに歌われがちだ。が、これらの歌にあるのは、非常にビビットな、いまどきの高齢者の姿だろう。人間の老いの実相は、このように生き生きとしてユーモラスなものかも知れない。伊藤はその老いの実相をありのまま受け入れ、暖かく見つめている。
 高齢者に対してだけではない。カウンセリングの対象である少年少女や、地方の過疎のなかに生きる隣人たちにも伊藤の視線は注がれている。その視線は実に自然である。
 また、今回の歌集では、「顔」を歌った印象的な歌がいくつかあった。

暗き灯に甘酒飲みし日の去れど雛(ひひな)の顔の奥に娘(こ)らゐる
似よる人いくたりもゐるみどりごのかほ 亡き人もひつそりとをり
花びらの浮かぶ水面にみどりごの顔を咲かする若き父あり

 雛人形の顔のなかに、幼かった日の娘の顔を見る。新しく生まれた自分の孫の顔のなかに、自分の父や母といった「亡き人」の面 影を見る。これらの歌の背後には、顔を媒介として、他者と深く繋がっているという感覚があるだろう。「顔」を歌ったこれらのやや風変わりな歌のなかには、自己という存在を他者とのつながりのなかで確認している伊藤の独特な人間観がおのずから滲み出ているように思った。
 しかしながら、伊藤の歌にあるのは安っぽいヒューマニズムではない。

みなづきの夜の稲田をわたりくる風に立ちたり邪魔物として
世に生くる人持ちがたき十和田湖の十五メートルの透明度憎し

 稲田を渉ってくる夜の風にとって自分はたんなる「邪魔者」に過ぎない。十和田湖の水の透明度からすれば、自分は濁りを孕んだ「世に生くる人」に過ぎない。これらの歌には、自然から見返された自分をとらえている伊藤の視線がある。人間は、自然のなかに包含されているからこそ豊かなのだ‥‥。これらの歌にはそのような血肉化された伊藤の自然観がさりげなく表出されている。
 思えば、伊藤の歌の歴史は、そのまま人間として自分と、風土としての自然の相克の歴史だった。『青の風土記』のなかでは自分と対立として描かれていた自然。『森羅の光』では、早急に理念化した形で歌われていた自然。そのような自然へのスタンスがこの歌集では、いつのまにか自分と相和するものとしてとらえらえている。そこに五十代をかけて深まっていった伊藤の世界観を感じるのだ。
 同様のことは「時間」に対する感覚にもあらわれている。

プラトンに想起説あり月光に濡れかへりつつすべては親し
冬瓜(とうがん)のとろり煮えたるをそろり食ふ永世の中の一瞬長し

 現実の世界を見るとき、人間は自分がかつて住んでいた「イデア界」を想起するのだ、というプラトンの「想起説」。月光のなかを歩みながら、伊藤は、かつて自分が住んでいたかもしれない異界をふと想起する。そのような視点でとらえられたとき、現世はかぎりない豊饒の相貌をもって伊藤の前に立ち現れてくる。
 二首めの歌も同様だ。冬瓜を喉に通らせる一瞬のあのやわらかな感触。その感触の愉悦のなかに永遠があるのかもしれない。永遠の時間の相のなかでとらえられた今という瞬間の豊穣の相貌、伊藤は歌うことでその豊饒さをじっくりと見つめている。
 自然のなかに抱かれることによって明らかになる生の豊穣。永遠の相のなかでとらえられることによって明らかになる生の豊饒。伊藤の『微笑の空』は、失われつつある生の豊穣を、歌によって再生しようとした歌集だと思う。

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