結社と時間
text 吉川宏志
結社「かりん」の創刊三十周年記念号が出た。巻頭に置かれた馬場あき子の文章の、次の一節がやはり印象深い。
「創刊号の出詠者は六十九人だったが、それから今月まで歌とともに走りつづけた人は二十数人である。歌の道はやはりきびしい。自分にとって歌とは何だったかを多くの人が思い知るほどの時間がいつしか過ぎたのだ。」
(「三十年という節目」)
現在は時間の流れが異常に加速しているように思える。今日の話題が、数ヶ月経つとすぐに忘れ去られてしまう。だから〈今〉という瞬間に、どのような鮮烈な言葉を発するか、そしてどのような反応が返ってくるかが最も大切のように見えてくる。これは短歌だけではなく、現代のさまざまなジャンルにおいても同じようなことが起きているのだろう。時間が寸断されていくような感覚が強いのである。
けれどもほんとうは、十年、二十年といったスパンで眺めなければ見えてこないものも、確かにあるのである。そしてそのような視座を確保する方法の一つが、結社なのだろうと思う。うまく運営されている結社では、長年歌をつくっている歌人と、歌をはじめて間もない人が、歌会などで親しく交流を結ぶことができる。自分とは別
の時間を生きてきた人の感性や思考を、短歌を通じてなまなましく感じることができるわけである。そんな体験を続けていけば、自分の目ではない〈他者の目〉が、自分の内部に育っていく。〈今〉だけに囚われないためには、そのような〈他者の目〉を持つことが必要なのだ。
最近出版された大野道夫の『短歌・俳句の社会学』に、次のような感想が述べられている。
「(……)私にとって短歌というものは書き上げられた作品だけではなく、結社の仲間と編集で歌の数を数えるときの指先、歌稿をくくるときの千枚通
しと糸の感触、そして編集が終わって酒を飲んで話したり、歌会などで歌について批評しあったり(……)それら全てをひっくるめたのが私にとっての短歌(体験)であり、それらの総体から作品も生まれてくると思うのである。」
「指先の感触」を重視して書いているところに、私はたいへん共感した。短歌には、長い時間をかけて身体でおぼえなければ捉えられないものがある。身体的な言葉のリズムが最も大切な詩型であるからだろう。大野が「指先の感触」にこだわることで伝えたかったのは、日常的な積み重ねでしか得ることのできない〈身体知〉の重要さだったのではなかろうか。結社にはたしかに閉鎖的になるなどの危険性はある。けれども、身体で短歌の形式をおぼえるためには優れたシステムなのである。
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石川不二子の『ゆきあひの空』が刊行された。石川の歌はおおらかでときに大胆な言葉づかいが魅力なのだが、この歌集でもそれがぞんぶんに発揮されている。石川は、独特の身体的なリズムをもつ歌人の一人であろう。
咲きはじめの花のおほきく見ゆること年々にして庭の白萩
うつぶして枝長く曳く白萩に半顔の月光りそめたり
わたくしも此処で死ねるか姑(はは)の死にしベッドを借りてお昼寝をする
尺蠖(しやくとり)がみごとに我の腕を計る しわしわは何の木に似てゐるか
一、二首目のようなゆったりとした言葉運びの美しさ。「咲きはじめの花のおほきく見ゆる」という感覚もおもしろく、なるほどと思わせられる。また、三首目の「お昼寝をする」という人を食ったような結句や、自分の腕の皺を「何の木に似てゐるか」と尺取虫に呼びかけるユーモアも、とても楽しい。
患者食の節分の豆もらひしが夫とものいひし最後のやうな
庭のわらび食はせ施設に送り出す夫の白髪風にそよげり
病院の暁に息止まりゐし夫(つま)こそよけれ我もしかあれ
帰りますといへばうなづく夫のまなこ涼しかりしが最後になりぬ
この歌集では、夫の病と死が中心に詠まれているのだが、むしろ淡々とした口調で歌われているのが印象的である。「夫こそよけれ我もしかあれ」という表現には驚かされるが、必ずやってくる死を、たっぷりとした言葉で受け入れようとしている感じがした。この歌集のさびしさは、次のような歌に静かにあらわれているのかもしれない。
大白鳥まことに巨大 侶(とも)なくてゐるをあはれと思はざるまで
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