「個人的な感覚」とどう対話するか
text 吉川宏志
大辻隆弘氏も述べているとおり、おそらく今回の論争は、批評の書き方の立場の違いから生まれてきたのだろう。だから、これ以上論争をする意図は私にはないのだが、最後に一つだけ書いておきたいことがある。おそらく、それが現在の短歌の状況に大きく関わっているという感じがするからだ。
つまるところ、吉川の二元論的図式に従う限り、〈風景〉や〈実感〉はあくまでも〈客観的〉な〈外界〉の個人的な感覚像にすぎないことになる。それはあくまでも私個人のものであり、他人と共有することはできない。そこには、その個人的感覚を普遍化し、理論化する経路は初めから断たれてしまうのだ。
(「上空飛行的ということ」)
ここが大辻氏との大きな違いなのだろうが、「個人的感覚を普遍化し、理論化する」という意欲が、私にはあまりない。そもそもそれは不可能なのではないかと思うし、「個人的感覚を普遍化」するという方向には、危うさも感じてしまう。
ではなぜ批評を書くのか。私の場合は、自分の感じ方や考え方という〈型〉を提示したいという思いがあるからなのだろう。たとえて言えば、途中まで道が描かれた地図を他者に手渡すようなものである。「個人的な感覚」を他者にそのまま伝えることはできない。けれどもその途中のみちすじを示すことはできる。もちろんその道を歩くかどうかは、受け手の自由である。ただ、もしその道を歩いてもらえれば、私の「個人的な感覚」に近いものを、他者に体験してもらえるかもしれない。そのような希望をこめて、私は書いている。
もちろん大辻氏のように、「原則を徹頭徹尾貫きとおすような評論を書きたい」(「論争の終わりに」)という姿勢も尊いと思う。ただ、現在の非常に多様化し、混沌とした短歌の状況を批評していくためには、もっと新しい書き方が必要なのではないか、という意識が私にはある。大辻氏は「他分野の身体論や絵画論を援用する必要は全くない」という考えだが、私は、失敗することがあるかもしれないが、むしろどんどん取り入れたい。もちろん具体的な一首一首の読みが最も大切であることは当然だが、それだけに自閉してしまうのも危ういように思われる。短歌批評の柔軟性をいかに回復するか。私はそれに強い関心をもっている。
* *
ただ、柔軟性というのは、「人それぞれだから、みんな認めましょう」というスタンスのことではない。
笹井宏之の『ひとさらい』という歌集の評価が、一部では非常に高いらしい。
黒瀬珂瀾は、「未来」四月号の時評で、
「スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ」
「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほ う何年だったか思い出せそう」
などの歌を引き、「ああ、なぜに君はこんなにも切ないのか。くっと胸が締め付けられるような気がした。(……)この対話風景は極めて狭い。自分以外の誰一人として耳には留めていない言葉が、対話形式をもって読者に提示される。」というふうに評価する。
他者の不在と他者の希求が並立する、奇妙な歌世界。そこで希求される他者とは実は、自分自身に他ならない。言い換えれば、笹井の歌世界とは、自己の身体から3ミリ程度の範疇のみを指すのかもしれない。
という黒瀬の指摘は、一般論としてはよくわかる気がする。他者との関係が成立しないから、自己のなかに擬似的な他者をつくりだして対話するしかない閉塞感。現代社会の風潮として、それはかなり当たっているのだろう。ただ、それが「スライスチーズ」や「こんでんえいねんしざいほう」の歌の読みになっているかと言えば、私には疑問である。黒瀬の指摘は、歌の背景の説明にはなっているかもしれない。けれども、一首の歌を言葉に即して読むところからは、黒瀬の言う「切なさ」はほとんど感じることができないのではなかろうか。少なくとも従来の短歌の読者からすれば、なぜ「くっと胸が締め付けられる」のか、まったくと言っていいほど理解できないだろう。むしろ、「こんでんえいねんしざいほう(墾田永年私財法)」の表記は、なかなかユーモラスだと思うが。
ただ、ここが難しいところなのだが、こうした歌に「胸が締め付けられる」「切なさ」を感じる読者がいることも、けっして否定はできない。そこにはやはり「個人的な感覚」があるのだから。しかしその感覚をいきなり「普遍化」して語っても、なかなか通
じていかないのではないか。だから、自分はこのように「スライスチーズ」の歌を読みました、という読みの過程(一首の言葉に即した読み)をもう少していねいに書いていく必要があると思う。別
に「理論化」しなくてもいいわけで、自分の読みを、具体的にリアルに書いていけばいいのである。もちろん、それをしたからと言って、「個人的な感覚」が他者に伝わるとは限らないのだが、そうした地道で面
倒な作業を続ける以外に、他者との対話を成立させる道はないのである。
『ひとさらい』という歌集だが、私は次のような歌がいいと思った。
猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう
蛾になって昼間の壁に眠りたい 長い刃物のような一日
死んでいるいわしがのどをとおるとき頭のなかにあらわれる虹
手のひらにみずうみのある青年が今日も魚を売りにきている
一首目の「猫に降る雪」という把握は新鮮だし、「肌色うすい手」にも、あやういようなさびしさがある。この歌からは、作者と同じような孤独感をもった他者の姿が見えてくる感じがする。
二首目の「長い刃物のような一日」という比喩もおもしろい。上句の「昼間の壁」とも響き合っているところがあって、壁に射している日光が、長い刃物の感じを生み出したのかもしれない。三首目の「死んでいるいわし」と「虹」の組み合わせも、不思議な説得力がある。この作者は、こうした意外なものの組み合わせに、いい感覚をもっており、それがうまく活きると、印象鮮明な歌が生まれてくる。また、四首目の「手のひらにみずうみのある青年」という詩的な奇想も楽しい。神話的な世界につながるものもあるだろう。
ただ、こうしたみずみずしい発想の歌は、歌集全体からいえば、あまり多くないような気がする。「ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした」といった、とりとめのない調子の歌も少なくないのである。だから歌集全体としては散漫な感じがあり、一冊としての迫力(トータルとしての作者の存在感)は、残念ながら希薄であるように思った。むろん、これは私の「個人的な感覚」なのであって、逆に自己が分散している感覚がいいのだ、という考え方もあるかもしれない。そう主張したい人は、自分たちの読み方が他者に伝わるような批評を書いていってほしい。
「みんな違って、みんないい」でもよくないし、「駄目なものは駄
目」というように単純に裁断することもできない。とても難しい時代になっていると思う。そんななかでどのように開かれた批評の言葉をつくりだしていくか。それぞれが考えていかなければならない問題であろう。
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