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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



「自然」をどのように語るか
text 吉川宏志

 大辻隆弘が前回の週刊時評で述べているとおり、現在「自然詠」という語の定義が曖昧になってきていることは事実である。「短歌における自然と人」というテーマで特集を組んだら(よほどうまく原稿依頼をしないかぎり)、漠然とした内容になるのは避けられないだろう。
 私は『風景と実感』の中で、

 「現在、『自然』という概念は、非常に曖昧になっている。たとえば、遺伝子組み換えの大豆やクローンの牛は、『自然』なのか『人工』なのか。(……)『人間も自然の一部だ』というエコロジー的な議論も、最近は耳にする。そうであれば人間がつくったものも『自然』の一部と言えよう。また、『石油やウランも自然だ』という考え方もある。なぜなら石油は古代の生物が化石になったものであり、ウランも地球がつくりだした鉱物だからだ。定義を広げていけば、世の中のすべてのものが『自然』ということになってしまう。」(p.58)

と書いている。「自然」の定義は、時代の情況によって大きく揺れ動きやすいのである。その危うさを避けるために、私は「自然詠」という用語を用いず、「風景」という視点からさまざまな歌を批評していこうとした。歌人が身の回りの空間をどのように言葉で捉えているのかを、読解していく試みである。そうであるから、佐藤佐太郎が詠んだ「舗道」や、三井修が読んだ中東の「砂漠」など、人工物や日本以外の「自然」を詠んだ歌も、考察の対象にしている。だから、

「吉川の風景論は『ネイチャーとしての自然』が、明治期の和歌の世界にどのような形で定着したか、ということを追跡した研究だといってよい。(……)が、そもそも、近代短歌における自然が、『おのずから』と『ネイチャー』とが渾然一体となった両義的なものであるとするなら、吉川の分析は、その混沌とした両義的自然を一義的に裁断してしまう危険性をもっている、ともいえる。」

という総括の仕方は、かなり乱暴なのではないかと思う。「自然」という曖昧な概念をできるだけ回避するために構想している論考に対して、「自然を一義的に裁断してしまう危険性」があると批判しても、おそらく空振りに終わるだけだろう。
 もちろん、「吉川は『自然』という一種のイデオロギーを回避しようとしているが、○○という点で成功していない。」という形で批判されるのであれば、私は喜んでそれを受け入れたいと思う。自分の論が不十分であることは、よくわかっているからだ。しかし大辻の批判は、論の前提そのものが見えていない気がする。また、

「吉川がいう〈風景〉とは、そもそも、西欧近代の『自然対自我』という認識論的な布置が成立したことによって生起してきたものだからである。」

という断定にも唖然とする。私が『風景と実感』で一貫して論じているのは、身体と外界がつながり合うことで、広がりのある自己が生まれてくる現象だからである(p.153「風景と〈わたし〉」、p.158「風景と身体」などを参照)。風景は「自然対自我」などという単純な図式によって成立するのではない、ということを幾度も書いてきたつもりである。たとえ私の考え方に反対であったとしても、まるっきり無視して論を進めるのは、いかがなものかと思う。間違っていたら申し訳ないが、大辻は斜め読みまたは飛ばし読みで書いているのではないか、という疑いさえも浮かんでくる。

*        *

 大辻は、

「小池(光)によれば、私たちが現在使っている『自然(しぜん)』とは、西欧の『ネイチャー』という概念を翻訳したものである。その『ネイチャー』とは、『人間と対立するものの総体』であり、『人為界の外部にある客観的物質世界の総体』をそもそも意味していた。(……)が、その一方で、日本人の心のなかには、古来から『おのずから』『あるがまま』という意味をもった『自然』(あるいは『自然(しねん)』)の概念があった。」

と述べる。大辻は小池の発言をかなり無批判に受容しているようだが、じつはこうした論調は、現在の「自然」論では陳腐になっている感がある。ちなみにインターネット上の百科事典であるwikipediaで「自然」の項を検索しても、同じようなことが書いてあるので、いかに現代では常識的なのかがわかるだろう。
 しかし、西欧と日本の自然観を単純な二元論で捉えることには、もっと慎重であるべきだと私は考えている。もし日本人が「おのずから」自然を感じていたのであれば、桜や梅やホトトギスといった決まったもの以外のさまざまな動植物を、なぜ和歌に詠もうとしなかったのか、という疑問が出てくる。逆に『江戸期のナチュラリスト』(木村陽二郎)などを読めば、「博物学(natural history)」的な自然の見方は、十七世紀の日本にはすでに入ってきていることがわかる。
 また、西欧の長い歴史をもつ美しい風景画を眺めれば、自然を人間と対立したものとして捉えていたという見方は、かなり疑わしくなってくる。キリスト教世界では、神がすべてのものを創造したので、自然を知ることは神の愛を知ることにつながるという考え方もあったらしい。こうした論議は、さまざまな書物が出ているからそれらに譲るが、知れば知るほど、簡単に割り切れる話ではなくなってくる。一口に西欧といっても、とても広い。地域によって自然に対する感性は大きく異なり、一括りにはできないのである。
 西欧と日本の自然観を対比するという語り口は、和辻哲郎の『風土』(1935年)にすでに見られる。

 「ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。(……)自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現れたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。」

 もちろん、こうした見方が全面的に誤っていると言いたいのではない(「たかだか神の造ったもの」という口調には陰湿なものを感じるけれど)。しかし、こうした二元論が、日本人の自然観は優れているというナショナリズムを導きやすい面 ももっていることは否定できないだろう。『風景と実感』の「風景とナショナリズム」(p.195)という文章の中で、私は風景を詠んだ短歌がナショナリズムの昂揚につながっていった事例(たとえば戦時中に高千穂峰を賛美した歌など)を論じている。そのような歴史を、私たちはときどき思い出す必要があるだろう。私は、大辻のように素朴に「ネイチャー」と「おのずから」とが分離できるとは信じないのである。

*       *

 繰り返しになるが、「自然」という語を定義するのは難しい。そうであるから、「あなたの考える『自然』より、私の言う『自然』のほうが深遠である。」という論法が、しばしば幅を利かせることになる。この論法は、相手を打破するには非常に便利である(たとえば「私のほうが田舎に住んでいて、ほんとうの自然をよく知っている」と言われたら、都市に住む人は何も言えなくなる)。けれども、こうした抑圧的な言説は、さほど生産的であるように思えない。
 短歌において、「自然」を論じる語り口自体を、まず疑うこと。「自然詠」や「写 生」といった出来合いの用語を使うことで、抜け落ちてしまうものを警戒すること。それが今、最も重要なのではないかと、私は切実に感じるのである。

竹の節いろ白々と粉(こ)をふきていま六月の水を上げおり
臼ほどの大きな月がいま昇る泣いているのか辛棒をせよ

以前も紹介した岡部桂一郎歌集『竹叢』が、読売文学賞を受賞した。こうした歌の風景のおもしろさをどのように批評していくのか。硬直した批評では、こんな奥行きの豊かな歌の良さを伝えることはできないのだ。

 
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