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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



「自然」の両義性
text 大辻隆弘

 「自然詠」とは何か。短歌において「自然」とは何か。そういう問題を考えるとき、私たちは常に、何かしら釈然としない気分を味わってしまう。
 「短歌現代」3月号の特集は「短歌における自然と人間」もそうだ。多くの論者が真摯に論を展開しているのだが、結局のところ、短歌において自然とは何なのか、という問題はよく見えてこなかった気がした。
 例えば、各人が自然を歌った例歌として挙げている歌も、およそ、恐ろしくまちまちである。

うち晴るる雪の野に舞ふ白鷺の羽のひかりは天(てん)にまぎれぬ
                           木俣 修
頌(ほ)むるよりほか知らざりしひと喪(な)くて暁(あけ)には森の髪うごくかな
                           浜田 到
森を見ず木をも目守らぬ一日の終わりに覗く卓上の鉢
                           小塩卓哉

 これらの三首は、今回の特集の秀歌選のなかに挙げられている。が、これらの歌を同列にならべることはどう考えてもできないだろう。木俣の「白鷺」は実景であり、浜田の「森」はあくまでも比喩であり、小塩の「卓上の鉢」は生活の一場面 である。おなじ「自然詠の秀歌」を挙げながら、評者によって「自然」の概念は、このようにひとりひとり異なっている、といってよい。
 短歌において「自然」の概念は、非常に曖昧である。が、そもそもそれは、一体どうしてなのか。
 この特集のなかの小池光の「おのずからとネーチャー」は、そのような問題に触れた文章である。そのなかで小池は、「自然」という概念の多義性について言及している。
 小池によれば、私たちが現在使っている「自然(しぜん)」とは、西欧の「ネイチャー」という概念を翻訳したものである。その「ネイチャー」とは、「人間と対立するものの総体」であり、「人為界の外部にある客観的物質世界の総体」をそもそも意味していた。自然科学は、そのような「ネイチャー」という概念の上に立脚しているといってよい。
 が、その一方で、日本人の心のなかには、古来から「おのずから」「あるがまま」という意味をもった「自然」(あるいは「自然(しねん)」)の概念があった。日常的に「自然とそうなってしまった」「そうするのが自然だ」というときの「自然」とは、後者の意味で使われている。
 小池はこのような両義性を指摘した上で、近代短歌の歴史は、西欧から移入された前者の「自然」の概念が、日本古来の後者の概念にしだいしだいに包含され、混同されていった歴史だったのではないか、と総括する。
 確かに、斎藤茂吉の作品をその筆頭として、近代短歌の自然詠のなかで、「ネイチャー」としての「自然」が立ち現れてくる作品は少ない。自然詠には、かならず「おのずから」推移するものとして自分の身めぐりのものを受け入れようとする意識が働いている。短歌における「自然」の曖昧さは、実はこのように「ネイチャー」と「おのずから」が渾然一体となってしまっているところから生起するのかもしれない。
 以前この欄でも触れた評論集『風景と実感』のなかで、吉川宏志は、その第2章すべてを割いて近代短歌における〈風景〉の成立を論じている。今回の話題に引きつけて考えると、吉川の風景論は「ネイチャーとしての自然」が、明治期の和歌の世界にどのような形で定着したか、ということを追跡した研究だといってよい。なぜなら、吉川がいう〈風景〉とは、そもそも、西欧近代の「自然対自我」という認識論的な布置が成立したことによって生起してきたものだからである。
 吉川は〈風景〉の成立を、さまざまな資料を追跡して解明しようとしている。その努力には教えられることも多い。が、そもそも、近代短歌における自然が、「おのずから」と「ネイチャー」とが渾然一体となった両義的なものであるとするなら、吉川の分析は、その混沌とした両義的自然を一義的に裁断してしまう危険性をもっている、ともいえる。ギリシア神話に出てくる「プロクルステスの寝台」の故事ではないが、吉川の著書の〈風景〉を論じた第2章の文章が、私自身しっくりこなかったのは、どうやらそのような理由によるものらしい。
 短歌において、人間とそれをとりまく外界の関係は、どのような枠組みで論じられるべきなのか。それは残念ながら、私にもよく分からない。とりあえず言えるのは、あくまでも歌の「ことば」自体の問題として「自然」を捉えなおし、「ことば」への内在的な密着のなかから認識の枠組そのものを抽出してゆくというアプローチの重要性である。吉川の著書でいえば、一首一首に即した鑑賞という形で論じられた第4章の「歌人論」の方に、彼の考える〈風景〉の概念はより明晰なかたちで明らかになっている、と感じた。

 
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