反芻される主題
text 大辻隆弘
先日、シンポジウムのために、米川千嘉子の既刊6歌集を読みなおした。そのなかで、ひとつ気づいたことがある。
米川の第1歌集『夏空の櫂』には次のような恋の歌がある。
君も文芸も欲しきよ太き夏の腕にをさまりきりてわれがいふ声
『夏空の櫂』(88)
刃はメロンの果肉に沈むかつて愛はわれを損ふと思(も)へり幾度
恋人の腕に抱かれながら「君も文芸もほしきよ」と思う。相手の全存在と、自己の実現をふたつながら獲得したいと願う作者。相手への思慕を「われを損なふ」ものとして疑問視し葛藤する作者。ここで描かれているのは「恋」というには、あまりに息苦しい自分と相手の葛藤の姿であろう。
これらの歌には、「個」の確立というものを人生上の絶対的な目標とする近代的な人間観があり、男性に依存する恋愛は「個」の確立を阻害するとするものだと考えるフェミニズムの思想がある。現代のわかものの感覚的な恋の歌からすれば、きわめて頭でっかちな恋の姿を歌った歌だといえる。これらの相聞歌が作られたのはもう四半世紀前、隔世の感がある。
が、興味ぶかいのは、米川はこの自分の若い頃の苦しい恋愛をその後の歌集で何度も歌にしている、という点である。
かの日君を見上げし理由(わけ)もその狂をわれがもたざる悔しさのため
『一夏』(93)
愛しつづくることの疲労を語る詩のこよなかりけり愛を知らぬ
日
『たましひに着る服なくて』(98)
心など詮なきものを問ひつめて傷つけたり十五年まへの鞍馬の春にも
『一葉の井戸』(01)
第2歌集から第4歌集の歌である。なぜ若き恋の日々に、自分は相手に「悔しさ」を感じたのか。苦しい恋愛の日々に自分が問いつめたものは何だったのか。これらの歌において、米川は、そのような問いかけをみずからに課すことによって、自分の青春をしだいに客観視してゆく。
米川のそのような志向は、最近の歌集において次のような歌を生み出してゆく。
泣く学生の話する君ぐんぐんとはるかな夏激しき学生なりし
『滝と流星』(04)
青葉の夜数式美しと解きゐるは若いあなたでなく息子なり
『衝立の絵の乙女』(07)
学生の話をする夫のなかに学生だった頃の彼を想起する。息子のなかに若き日の夫の面
影を見る。これらの歌では、若き日の恋愛はすでに思い出に変わっている。第2歌集において若い恋愛を痛みをもって反芻していた米川は、ここでは、すでに痛みを乗り越えて懐旧のなかで自分の青春を振り返っているのである。
同じテーマを長い年月をかけて何度も歌にすること。そのことによって米川は、自らの精神的な成長をそのつどそのつど自己確認している、といってよい。若い日の苦しい恋愛という主題は、米川千嘉子という歌人にとって、みずからの歩みを確認するための基点である、といってよいのだろう。
同じことは、最近第5歌集『東洋の秋』を出版した島田修三についてもいえる。第1歌集から、島田が偏愛するのは、旧日本軍に関するアイテムである。
睾丸ハ左方ニ入ルルヲ可トスとぞ繊細なるかなや帝国軍法
『悲歌晴朗集』(91)
おお《桜花》全く湧かざる感傷の厄年肥満はしらける次第に
『離騒放吟集』(93)
一等駆逐艦ユキカゼを酒肴(さかな)とし敗兵の裔はかなしきろかも
『東海憑曲集』(95)
紐育の秋空を背にKAMIKAZEの自意識過剰は散華するなり
『シジフォスの朝』(02)
丹陽(タンヤン)と身をやつしつつ小国艦隊を率ゐし雪風あはれかぎりなし
『東洋の秋』(07)
帝国軍法、特攻人間爆弾・桜花、駆逐艦・雪風、神風特攻隊‥‥。これら帝国陸軍・帝国海軍の軍紀や兵器にこだわりながら、島田は、そのつどそのつど、厄年になった自分や、同時多発テロを見つめてゆく。その行為の根底にあるのは、父親が兵隊であり、自分が「敗兵」の息子であるという自覚である。
島田は昭和25年生まれ。太平洋戦争を直接には体験していない。が、それを体験していないからこそ、島田は自分のなかにある「戦争」と「戦後」の意味を、同じテーマに執着することによって、確認していこうとしているのかも知れない。
このように見てくると、何度も繰り返されるテーマの根底には、常に「自分は何者なのか」という自己確認の欲望がうごめいている、ということが分かってくる。反芻される主題。それは、歌というものが自己確認の器として機能するとき、必ず歌の喫水に顔を表すものなのだ。
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