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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



地上5ミリの地点
text 大辻隆弘

 斉藤斎藤の評論「妻はさびしい」(『井泉』19)を読んだ。優れた吉川宏志論であると同時に、表現に付随する「差別 性」に触れている文章だと思った。
 この文章のなかで、斉藤は、吉川の中に「歌人のつよい自負」を見る。彼が問題視するのは、そのような強い作家意識のもとに吉川が現実を歌にしようとするとき、そこに現実を「見下ろすような視線」が現れ出てしまう、という事態である。
 たとえば、その例として、斉藤は、『海雨』の中から次のような歌をあげている。

冷静にわれは聞くしかないのだよ冷静はきみを傷つけるけど  吉川宏志

 斉藤は、この歌の上句「冷静にわれは聞くしかないのだよ」のなかに「嫌なもの」を感じるという。この歌において、妻は、下句で「きみ」という日常的な二人称で呼ばれている。それに対して、上句では「僕」ではなく「われ」という文語的な一人称が現れる。斉藤が疑問視するのは、このような「われ」がいったいどのような位 相に存在するものなのか、ということだ。
 妻という現実を描きながら、吉川はここで自分を、「僕」ではなく「われ」として措定する。そのことは、彼が自分を、妻と同じ現実の地平で相対する存在としてではなく、「書くわれ」としてすこし高い位 置に置こうとしている、ということだ。現実から少し遊離した「書くわれ」という超越的な視点を担保した上で、吉川は、現実を「少し見下すように」歌にしているのではないか‥‥。私なりにまとめると、斉藤はこのように吉川の歌に問題点を指摘しているのである。
 したがって、斉藤は、吉川の歌の「われ」を次のように言う。

冷静というよりどこかうわのそらな「われ」は、夫よりも歌人、生きる私であるよりも書く私であり、生よりを死を、現在よりも過去を、現実よりも歌の世界を、少しえこひいきしている。現実を軽視するわけではない。だから作品世界は生活世界をベースにしているが、吉川のわれの足の裏は地べたを歩いてはおらず、地べたから5ミリほど浮き上がっている。

 このような評言は、吉川の歌の特徴を的確にいい当てている、というべきだろう。思うに、このような批判は、斉藤自身の短歌観と深く結びついているに違いない。
 斉藤斎藤は、陰惨な現実を、修辞や詩的昇華を拒否して歌ってきた歌人である。「地上5ミリ」ではなく、斉藤は「地上ゼロミリ」の地点に立ちながら現実と対峙することを希求している、といってよい。そのような斉藤にとって、現実よりも歌の世界を「えこひいき」する吉川の態度は、我慢ならなかったものなのだろうと思う。
 しかしながら、私は次のように思うのだ。「地上5ミリ」の視点を用意することなしに、はたして、本当に歌は書けるものなのか。歌を書くということは、そもそも自らを「地上5ミリ」の超越的な地点に立たしめることなのではないか、と。
 私は、遅ればせながら、斉藤の連作「今だから、宅間守」(『るしおる』63号)を読んだ。そのとき、私が感じたのは「地上5ミリ」を拒否する彼の評論と、この連作の矛盾であった。
 この連作では、宅間守になり代わり、彼の心中語をそのまま描きだしたような、次のような歌がいくつも登場してくる。

家が安定した裕福な子供という不条理さを世の中に分からせたかった
お菓子バリバリコーヒーガブガブカイロホカホカちんぽこスコスコ充実のわたし

 これらの歌を読むとき、私たち読者は現実の宅間守という個人が、ひょっとしたら心のなかでこのような言葉を発していたのかもしれないという恐怖を感じてしまうだろう。
 が、私が思ったのは、ここで斉藤は、吉川と同じように「地上5ミリ」に立っているのではないか、ということだった。これらの歌において、斉藤もまた、宅間守の生の現実を、「フィクション」という文学的に超越した地点から見下ろしているのではなかろうか。
 確かに、この連作のなかには「わたしがもし宅間だったら 宅間がもしわたしだったら」といった言い訳のような歌も混じっている。この連作は「わたしがもし宅間だったら」という仮定のもとで書かれたもので、なり代わりのフィクションなのだ‥‥。そんな風な舞台裏を、読者に示しているような歌だ。歌の中に出てきた恐ろしい言葉は、宅間守本人が言ったものではないのだ、という免罪符は、このような自己言及的な歌や、詞書のなかにあらかじめ周到に準備されているのである。
 が、考えてみれば、このようなフィクショナルな視点こそが「地上5ミリ」ではないのか。フィクションの立場を用意し、その立場に立つこと自体が、すでに現実を見下ろす「地上5ミリ」の場所に立っている、ということに他ならないのではないか。なぜなら、斉藤は、宅間守という実存的な存在と、現実の同一地平において対峙した訳ではけっしてないのだから。
 誤解されては困るのだが、私は「今だから、宅間守」という連作を否定している訳ではない。むしろ、深い問題を孕んだ衝撃作だと思う。が、その衝撃力は、斉藤が「地上5ミリ」の地点に立つことによって初めて可能になったものだ。吉川が、妻を「書く自分」という地点から見下ろしているように、斉藤も宅間守を見下ろしているのではないか。
 歌を書くということ。もっと根源的にいえば、言葉を発するということ。それは、本質的に「われ」というものを現実から引き離す行為なのだろう。そこには、否応なく、自分と他を分節する「差別 性」が潜んでいる。その「差別性」の存在を自覚し、他者を傷つけてしまうかもしれない不安を胸に刻みながら、それでもなお言葉を発せざるをえない。表現とはそのような地平に生起する事実なのだと思う。
 吉川の「われ」は、不機嫌になった妻の前で沈黙するしかない。それは妻を無反省なまま見下しているのではない。沈黙が相手を傷つける以上に、言葉が相手を傷つけてしまうこと、言葉の持つ本質的な「差別 性」が他者の実存を損なってしまうこと。それを知悉しているからこそ、吉川の「われ」は、妻の前で沈黙するしかなかったのではないか。

 
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