匿名的な〈私〉の試み
text 吉川宏志
歌集を読むのにも、作者の〈情報〉が大きな影響を与える時代になった。賞を獲ったか、どの結社に所属しているか、どれくらいの年齢か、どんな境遇の人か――そんな〈情報〉が先行してしまう面
が、たしかにある。これだけ数多くの歌集が出版されている時代であるから、名前を知っている人のほうを先に読んでしまうのは、仕方がないところもあるのだ。ただそのため、いい歌集なのにあまり話題にならずに終わってしまうケースも、少なくない気がする。このインターネット時評をはじめた理由の一つに、総合誌などでは話題にならない歌集を積極的に取り上げていく、ということもあったのだが、まだまだ十分ではない。反省しなければならないところだ。
最近、島田幸典さんと話していると、川崎あんなの『あのにむ』という歌集がおもしろいという。私は見落としていた歌集だったので、ありがたかった。こうした〈口コミ〉は、現在でも大切なのだと思う。メディアだけを鵜呑みにせず、「良い」と感じた作品を、身近な人に紹介していく。そのような行為こそが、〈情報〉の洪水のなかで、良い歌を埋もれさせない防御策になるのであろう。
さて『あのにむ』(anonymは匿名者・無名者の意味)は、現在の短歌界の状況を逆用して、徹底的に〈情報〉を見せないという戦略でつくられている歌集である。表紙は真っ白で、作者名と歌集名だけしか印刷されていない。ほとんどの歌集に付いている「あとがき」もないし、解説や帯文も一切ない。旧漢字(たとえば「學」「國」のような漢字)を用いて書かれた歌だけが淡々と並べられている。しかも、その歌を読んでも作者の経歴や年齢などがほとんど見えてこないのである。川崎あんなという名前も、寡聞ながら私はこれまで見たことがなかった。あるいは誰かの変名なのかもしれない。非常に謎めいていて、読者の関心を強く惹きつけるつくりになっているのだ。〈情報〉がないから、知りたいという欲望が掻きたてられる。作者はそれをよく知っているのである。
春雷はいささかの間の暗闇をもたらしてのちをふたたび燈す
朝靄に小窓もけぶり、ながたらしいファックスのやうなゆまりをながす
あたたかいせかいとつめたいせかいとがあひ触れてする結露のやうに
白南風にめくれやすくて珊瑚樹のかたへ廣ごるふれあすかあと
死者しのぶ會は四時まですつかりと日暮れてひとはあゆむのだらう
秋の陽を桐の葉ひろくさへぎりて銷炭いろの翳をこぼせり
めくるめくやうにかたみに交はしつつインタアネットに遍在する花屋
このような歌が私はおもしろかった。一首目は雷による停電を詠んでいるのだろうが、「停電」と言わないことで、春の夜の濃密な感じを生み出している。三首目は「結露」をモチーフにしながら、背後にエロティックなものを匂わせる。二首目の「ゆまり」の歌もそうですね。五首目の「死者しのぶ會」も不思議な歌で、生と死のあわいを漂うような妖しさがある。最後の歌は、花屋どうしがリンクを貼っている様子を歌っているのだと思うのだが、ミステリアスな印象をつくり出している。何かを秘めるような修辞が非常にうまい作者なのである。自在でしなやかな文体から、かなりの修練を積んだ歌人ではないかとも思われる。
母親が入院しているらしい一連もあるのだが、
ゆふぐれのママンのうなじなまめきてめぐりに青の軟膏をぬる
といった感じで、「ママン」という語を使い、ナマの現実から離脱するように歌っている。私生活を直接に歌に表現しないという、禁欲的な意識が徹底しているのである。
私は『あのにむ』の巧みな歌を愉しみながら読んだ。だがその一方で、「この人はなぜ歌をつくっているのだろう」という疑問が最後まで続くもどかしさも味わった。
これからの短歌には明確な〈私〉は必要ではない、という考え方もあるだろう。だが、〈私〉を消していくと、「なぜ歌うのか」という問いを抱え込むことによって生まれてくる迫力を失うことになる。「なぜ歌うのか」という問いに作者は答えられなくてもいい(逆に安易に答えてしまってはいけない)。ただ、その問いを持ち続けることによって、テクニックを超えた何かが、読者に伝わることがあるのだ。『あのにむ』は、その面
において評価に迷う一冊であった。
けれども、匿名性が大きな問題になっている時代の〈私〉の描き方として、『あのにむ』は非常に興味深い試みであることは間違いない。賛否は分かれるだろうが、話題になってほしい歌集である。
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