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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



リアルと実感
text 大辻隆弘

 穂村弘の『短歌の友人』と吉川宏志の『風景と実感』が出版された。ともに約300ページにおよぶ充実した評論集である。
 かたや、ニューウェーブの代表的存在である穂村。かたや、反ユーウェーブの立場を鮮明にしつつある吉川。一見、両者の立場は正反対であるかのように見える。が、2冊を読んだときに浮かび上がってきたのは、意外にも、共通 した時代精神であるように思われた。
 穂村はこの評論集の第3章「〈リアル〉の構造」のなかで、村木道彦の歌と改作例の歌を例示している。

コカコーラの缶おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏 
                           (改作例)
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
                            村木道彦

 その上で穂村は、この二首について、次のように指摘する。

両者を比較したとき感じられるのは、リアリティの深さの違いである。「コカコーラの缶 」の方では、一首の情景がドラマの中のセットのように平面的な印象になっている。(中略)それに対して、「うめぼしのたね」の場合は、一首の中で「しずかなる夏」が、ただ一度きりの〈リアル〉な季節として息づいている。

 ベンチの上にコカコーラの缶が置かれてていたら、それは書割的な図柄にすぎない。そこに「うめぼしのたね」という意外なものが置かれているからこそ、一首の歌は逆に〈リアル〉になる。ここで、穂村が指摘しているのは、現実の中のかすかな違和をとらえることが〈リアル〉に繋がる、という主張である。現実はドラマのように筋書きどおりにはいかない。そこに小さな破綻や矛盾が生じるからこそ、現実はより生々とした表情を帯びるのだ。ここには〈リアル〉を保証する「偶然性」に対する穂村の鋭い認識があるといってよい。
 穂村と同様に吉川も、偶然や違和のなかに「実感」を見てとっている。
 彼は、「松葉の露」と従来の和歌で用いられた「花の露」を比較した正岡子規の『墨汁一滴』なかの高名なエピソードを援用しながら、子規が「実感」というものをどう捉えていたかを、次のように述べている。

松葉の露という従来の和歌に詠まれてこなかった風景を描写すると、さんざん歌に詠まれてきた桜花の露よりも〈実物〉のように感じられる―つまりリアルに感じられるという、考えてみれば不思議な現象を子規は鋭く指摘している。(「実感」という語について)

 和歌的な美意識の「花」とセットにして詠われていた「露」が、「松葉」という今までに詠われなかった題材と組み合わせられる。それによって、その歌を読む読者の胸には、新鮮な感覚が生まれてくる。予定調和的に想定された現実がほんの少し破綻したとき、人々はそこに生なまとした現実感を感じ取るのだ……。吉川はここでそう主張しているのである。
 ここで吉川が指摘している「実感」は、穂村が村木の歌について感じとった〈リアル〉とほぼ同じものだといってよい。〈リアル〉と「実感」は、ともに、見なれた現実がわずかに破綻したときの違和感にともなって生じる感覚なのだ。
 もちろん、両者には明白な相違点もある。それはおもに、両者が「生の一回性」をどう捕らえるかにかかわっている。
 吉川は、「実感」を身体性に基礎づけられたものとして考え、その根底にかけがえのない人間の生の一回性を置こうとする。それに対し、穂村の言う〈リアル〉とは、生の一回性さえも感じ取れなくなった現代の浮遊感のなかで、一瞬感じ取ることのできる刹那的な感触のようなものだ。生の一回性を、かけがえのないものと見、それへの信頼を復活させようとする吉川。そのような生の一回性への信頼を欺瞞だと考える穂村。ふたりの間には、近代的な生というものへの信頼と不信という断絶が横たわってはいる。
 が、それにもかかわらず、私はこのふたりのなかに共通した生への希求のようなものを感じる。それを〈リアル〉と呼ぶにせよ、「実感」と呼ぶにせよ、もはや現実のなかの小さな破綻や違和感のなかにしか、信じうるものを見いだせない。吉川も穂村も、そういう矮小化した人間の生のあり方を鋭く見つめている、といってよい。
 資本主義社会がぎりぎりまで行き着いた現在の空気を呼吸しているという点において、ふたりの「ヒロシ」はまぎれもなく同時代の兄弟なのだ。

 
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