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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

大衆化とジャーナリズム
text 大辻隆弘

 「短歌現代」に連載されている玉城徹と岡井隆の往復書簡がおもしろい。ふたりとも当代きっての文章家だけに、ふたりの対話は悠然と、駘蕩とした感じでゆるやかに進んでゆく。が、お互いの立場は鮮明だ。
 現在、ふたりの間で論じられているのは「短歌の大衆化」というテーマだろう。その大衆化にどう対処してゆくのか。その姿勢が玉 城と岡井でははっきり違うのである。
 岡井が1回目(短歌現代10月号)のなかで議論の俎上に上げたのは、短歌ジャーナリズムや結社の「大衆化」と文学の空洞化を嘆いた「左岸だより」のなかの玉 城の発言である。いまなお短歌ジャーナリズムの前線に立っている岡井は、玉 城の発言をの主旨に同意し、「大衆化」という現象の背後に「質より数という社会風潮」があることを認める。が、その「大衆化」はもはや押し留めようがない以上、自分はその中で最善の責務を果 たしてゆくしかない。玉城のいうように孤高の立場には立たない。岡井は、自分の立場をそう主張する。
 この岡井書簡に対する玉城の返信は厳しい。玉城は「大衆のことは、今、頭に置く必要はないでしょう」(11月号)と言い放つ。「大衆」は確かに存在するが、文学の価値を保持しようとする「詩人」は、その大衆化による文学的な価値の低下にくみすべきではない。静観すべきた。玉 城はそう主張するのである。
 この玉城発言に対して、岡井は再度、自分がジャーナリズムに加担することの意義を主張する(12月号)。岡井は、「文語定型の道しか、短歌の活路はない」という玉 城の意見に同意し、自分と玉城の歌は「少数のための少数の詩」であることを認める。が、短歌の運命は、そのような「少数のための少数の詩」だけでは決まらない。そこには「短歌の世界では絶対多数の〈大衆〉の質のよい部分」「『文語定型の道』を歩む多数者の無言の支へ」が不可欠であり、彼らの動向が今後の短歌の運命を決める、と岡井は言う。
 玉城も岡井も、「文語定型」を守るところにしか今後の短歌の活路はない、という認識は共有している。が、雪崩を打つような現在の「口語化=大衆化」にどう対処するか、で2人の態度は分かれる。玉 城は、その現象に一定の距離を取り「小数の詩」を守るべきだと考え、岡井はその大衆化のなかにあっても歌びとは啓蒙の責務を果 たすべきだと考える。今後、この「往復書簡」がどのように進展してゆくかは分らないが、2人の基本的な立場はすでに明らかになっているようだ。
 玉城と岡井の嘆きを待つまでもなく、短歌の「口語化」と「大衆化」は、とめどなく進行している。それは、グローバル化や市場主義とあいまって、雪崩を打っているといってよい。「売れるもの」だけに絶対的な価値を見出す。その流れは、短歌ジャーナリズムのなかにも否応なく流入してきているのである。
 たとえば、短歌ジャーナリズムのなかで燦然たる権威を保ってきた「角川短歌」は、今年に入って、はっきりと「大衆化」の方向に舵を切った。それは「〈私〉という主題の詠い方」(6月)、「文語で短歌を作ろう!」(9月)、「孫をどう詠うか」(10月)、「旧仮名遣い・新仮名遣い」(11月)、「短歌初歩問答集」「こどもの歌に学ぶ作歌の原点」(12月)といった「ハウ・ツーもの」の特集テーマに明らかだ。
 もちろん、総合誌における作歌指南にも意味はある。が、そこには短歌の本質に対する明晰な意志があってしかるべきだ。作歌の方法を示しながら、それを通 じて、短歌の本質に読者を膚接してゆく。総合誌の使命のひとつは、そのような真の意味での「啓蒙」に求められるべきだろう。が、「角川短歌」の方向転換には、かつては辛うじて保持されていた、そのような「啓蒙」の方向性は見えにくい。ダッテ、売レナクテハショウガナイジャナイカ、背ニ腹ハ変エラレナイ……。そういった編集者の嘆息だけが聞こえてきそうな編集方針の転換である。その転換は、さまざまな問題を孕みながらも、辛うじて「公器」としての役割を果 たそうとしていた「角川短歌」の今までの苦闘を知る人間にとっては、涙が出るほど悲しく、悔しい出来事だったといってよい。
 玉城徹や岡井隆が嘆いているのは、グローバル化や市場主義を背景とするこのような短歌ジャーナリズムの現状である。大衆化を横目で見つめながら「少数の詩」の孤塁を守ろうとする玉 城。どめどない「大衆化」を嘆きながら啓蒙の責務を果たそうとする岡井。態度こそ異れ、そこにはぎりぎりの水際で、それでもなお短歌を守ろうとする2人の最後の良心があるような気がする。ある意味で、玉 城徹と岡井隆は、短歌の最後の良心なのかも知れない、とも思うのだ。
 2007年度を総括した「短歌研究」の当代の代表的5歌人の座談会を読んだ。参加者の「口語の流入」(大衆化)に対する認識は、総じて現状追認に傾いてしまっている感がある。「てにをは」の重要性を述べた小池光の発言や、「文語短歌」を作る必要性を述べた高野公彦の発言といった例外はあるにせよ、そこには玉 城や岡井のような深い嘆息と痛みは感じられない。「今年は今までのところ、短歌の世界は平穏だったという感じがします」(佐佐木幸綱)という現状追認的な安心感のなかで、短歌の崩壊は、ひそかに確実に進んでいるような気が、私にはする。

 
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