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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

〈現象〉読みVS〈言葉〉読み
text 吉川宏志

 大辻隆弘が前々回に書いているように、『短歌ヴァーサス』が11号で終刊した。私もようやく入手して読んだところだ。この雑誌はもともと「ヴァーサス」というタイトルにあらわれているように、いわゆる〈ニューウェーブ短歌〉と〈既成の歌壇〉との対峙を目的としてきたところがある。この終刊号でも、その対立の構図はしばしば踏襲される。ところが、その「対立点」は具体的に何だったのか、といえば、非常に曖昧なままであるように思われる。
 よく聞くのが、短歌の〈私〉が変化した、という言説だが、このインターネット時評でも何度か批判した通 り、すぐに矛盾が露呈するような恣意的なものであることが多い。たとえば、大辻が高く評価する斉藤斎藤の〈私〉論も次のような調子なのである。

「若者が〈私〉に尊厳の根拠を置かざるを得ないのは、社会が流動化し、中長期的な「私」の安定が奪われたからである。いつ首にされるかわからないような身分で、社会的な「私」に尊厳を置きすぎるのは自殺行為だ。わかものに「私」を大事にさせたければ、わかもののほとんどが正社員として終身雇用される社会に戻すべきである。そんなことが可能だとすればだが。」 (「生きるは人生と違う」)
※注……この文章では、〈私〉は主体的な自分、「私」は客体的な自分(他者から見られた自分)を指している。

 この文章の論理上の傷は明らかである。社会が流動化したため「私」を大事にしなくなったというが、明治から高度経済成長期にかけての時代のほうが、むしろ社会は流動的だったし、未来への不安も大きかったはずだ。また、かつては終身雇用で安定していた、というのも幻想であって、現代よりもむしろ雇用条件は過酷だったのである。冷静に考えれば、評論の文章としては緻密さが足りないことにすぐ気づくはずである。どうも、自分の世代は特別 なのだ、という意識が強すぎるのではないか。自分の視点を大切にするのは悪いことではない。ただ、自分に対する絶えざる相対化がなければ、非常に短絡的な見方に陥りやすい。
 私は、斉藤斎藤がつい筆を滑らせてしまった部分を批判してしまったのかもしれない。もちろん彼の論にも評価すべき点はあるだろう。けれども、丁寧な検証を抜きにして、「わかったふり」になり、ムードだけが先行していくことに、私は危機感をもつのである。

*     *

 私は「短歌ヴァーサス6号(2004)」の「ネット短歌はだめなのか?」という特集で荻原裕幸と対談したことがあったのだが、そのとき、ここに「対立点」があるのではないか、と感じたところがあった。

吉川―「オーバーオールのほか何も着ず春小麦地帯をふたり乗りで飛ばそう」みたい歌もあるじゃないですか。「春小麦地帯」は中学校の地理で習う言葉ですよね。そんな言葉をセンスよく生かしているなって思うんですよ。そんなところで評価しては駄 目なの?
荻原―一首一首をたどれば、短歌のコンテクストの中に回収されるようなものはたくさんあると思います。巧いものも多いよね。ただ、歌集全体はそれを狙っているのではないような気がするな。従来の枠組みを超えたところへ向かおうとしてるみたいな。

 「春小麦地帯」の歌は、飯田有子の『林檎貫通式』より。私の読み方は、「春小麦地帯」という温かみのある懐かしい言葉で、恋の気分を象徴させているところをおもしろいと評価する。つまり、なるべく一首一首の言葉に沿って、味わっていこうとする立場である。
 ところが荻原は、従来の読みの枠組みを変えようとしているように感じられた。それが一体何なのか、この対談でははっきりとわからなかったのだが、今回の11号の座談会の穂村弘の次のような発言などから、ある程度、輪郭が見えてきたような気がした。

「斉藤斎藤の場合、実際の一次的な表現ですごくいいって言った人の率よりも、なぜ自分は肉体練習をしないのか、っていう定型観の強度みたいな方に行ってるよね。だから彼の歌を見るというのは、その「観」を見るっていうようなところがある。」

 ここだけ抜き出すとわかりにくいのだが、要するに作品そのものを評価するのではなく、作者が短歌という定型詩をどのように認識しているのか、というのが評価の対象になっているのだ、ということである。たとえば斉藤斎藤の場合、「こんにちは、動くゴミです。半透明の袋のなかから失礼します」のように、従来の短歌ではあり得なかった表現をパフォーマンス的に行うこと自体が目的化してゆく。あるいは飯田有子では「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔」のような、定型から大きく外れた歌がおもしろがられることになる。
 けれどもこうした歌について、一首の言葉に即して批評されることは滅多にないのではないか。むしろ、定型あるいは伝統を逸脱するパフォーマンス自体を、現代の若者の〈私性〉が変化しているという文脈に当てはめて、さまざまな「自分の物語」を紡ぎだすことに重点が置かれているように思える。つまり、作品を読むというより、読者のほうも作品を媒介にして「自分」を語る、という傾向が強いのだ。
 加藤治郎は11号収録の「ポスト・ニューウェーブ世代、十五人」という文章の中で、

便器から赤ペン拾う。たった今覚えたものを手に記すため                                   玲はる名

という歌を引き、

「玲はる名は結社に所属していたが、ラエティティアに参加し、歌集の編集を結社外の〈プロデューサー〉に委ねるという歌集の新機軸に拠った。(こういうコンテクストを落としてしまうと、どうも何かを語れたという感じにはならないのである)。この時代の性急さは、作品に刻み込まれている。便器に落ちた赤ペンで手に〈たった今〉を記すという精一杯の感覚が新鮮である。」

と述べる。どうもこの書き方も、作品を批評しているというより、玲はる名の行為を話題にしているという感じがする。そしてインターネット上で活動してきた加藤の「自分語り」になっている。私はやはり、作品と実際の作者はできるだけ別 物として考えたい。そのうえで「便器から」の歌を読むと、私はあまり「精一杯の感覚が新鮮」と思えなかった。「便器から赤ペン拾う」はわざと奇抜な場面 を設定しているようで、「たった今覚えたもの」という言葉からリアルさや切実さを感じ取れないのである。
 私は、「パフォーマンスがおもしろいから」「インターネット上でつくられたから」あるいは「メディアで評判になったから」といった理由で歌を評価することを必ずしも否定するわけではない。そのような〈現象〉で読むことも、興味を引く楽しみではあるだろう。けれどもその根底には、作品の言葉に沿って、丁寧に読んでいく姿勢がなければならないのではないか。そのように読んでいけば、自分とは違う他者の言語感覚に出遭うことができる。それが短歌を読む真の楽しみなのである。
 私は斉藤斎藤の歌では、

たれさがる低さがちがうブランコの座るところの色のはげた木

のような作品を評価する。ふつう私たちは「高さがちがう」と慣用的に言っている。ところがこの歌では「低さがちがう」と表現されている。細かなところだが、この一点だけで地面 すれすれに揺れている古びたブランコがいきいきと読者の目に浮かんでくるのだ。斉藤斎藤のパフォーマンスの部分だけを話題にするのではなく、むしろ言葉を逆用した描写 のおもしろさに注目すべきなのではないか。過激なパフォーマンスは、やがてマンネリ化していくだろう。
 歌の読みかた。そして評価のしかた。「短歌ヴァーサス」11号を読んで、私はそこに最も強く「対立点」を意識したのだった。

 
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