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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

書かれていないものを読む・身体的に読む
text 吉川宏志

 内田樹の『村上春樹にご用心』が出版された。ブログに書かれた文章を中心に編集されたものなので、文体は軽めであるし、村上作品の緻密な分析が展開されているわけでもない。一般 的な文芸評論とは全く違っている。けれども私は大変おもしろく読んだ。村上春樹はもちろんとして、短歌を含めた文学全体について考えるヒントがぎっしりと詰まっている一冊であると思う。だから今回は、この本の紹介をしてみたい。それがおのずから「短歌時評」につながるという確信があるからだ。
 たとえば、村上のこんな発言に、内田は注意をうながしている。

村上「僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人でだけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。」                        (『柴田元幸と9人の作家たち』)

 「うなぎ」という言葉に驚かされるが、村上は「共有されたオルターエゴ(注:別 の自己)のようなものかもしれない。」とも言い換えている。難解だが魅力的な発言である。
 ただ、短歌をつくっていると、その感覚はある程度わかるような気がする。短歌の場合、作者が読者に言いたいこと・訴えたいことをそのまま表現しようとしても、ほとんど伝わらない。短歌には五・七・五・七・七という定型があるわけだが、そのリズムに乗せて歌ったとき、初めて何か伝わるものが生まれてくる。

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
                     東直子『春原さんのリコーダー』

 たとえばこの歌では結句の「来て」がとてもユニークで印象的なのだが、この「来て」は七・七という字数の枠組みがあるために、(字数を合わせるという意味もあって)呼び込まれてきたものだろう。短歌の定型という「うなぎ」のようなもの(他者)が存在するために、表現にコミュニケートする力が生まれるのではないか。これは釈迢空が、「口から出まかせといふと語はわるいが、自由に語を流して、魂を捉える」ことを重視したのと、あるいはつながっているのかもしれない(「女流の歌を閉塞したもの」)。 村上春樹の言う「うなぎ」を、強引に短歌に結びつけてしまったかもしれないが、考えるための切り口を、読者が自由に発見できることがこの本の愉しさなのだ。
 また、「文学的倍音」について論じているところもおもしろい。「倍音」についての詳しい説明は省くが、音楽の表現によって、聞こえるはずがない音が聞こる現象を指すらしい。

 「文学の喜びもおそらくはまた倍音の喜びなのである。私たちはそこに「自分が今読みたいと思っている当の言葉」を読み当てて、感動に震える。「これは私だけのために書かれ、時代を超え、空間を超えて、作者から私あてに今届いたメッセージなのだ」という幸福な錯覚なしに文学的感動はありえない。
 そして、ある種の作家たちは(ホーミー歌手がそうであるように)、文学的倍音を出す技術を知っているのである。」

 これも同じように短歌に引きつけて書いてみよう。

獅子に会ふ歓びは誰に語るべきものにはあらず夜は白み来ぬ
                       春日井建『朝の水』

 たとえばこの歌は、春日井建の死の直前に作られた歌であることを知ると、ある種の凄みを帯びてくる。「獅子に会ふ歓び」とは病苦から解放され、死の世界へ赴くことをあらわしているのではないか、と感じられるのである。それは単に言葉だけを追っていてはあらわれてこない〈意味〉である。
 実際には、歌集の前後の歌を読むと、子供時代に見た獅子舞の記憶を歌ったものらしいのだが、春日井建が死の前に残したメッセージではないかという「幸福な錯覚」があるために、静かで深い「文学的感動」が生まれてくる。「獅子」という言葉の象徴性や、「誰に語るべきものにはあらず」という謎めいた語り口、そして結句の「夜は白み来ぬ 」の美しさ。それらが相俟って、「文学的倍音」――つまり書かれていない意味が伝わってくるのであろう。短歌とは、まさに聞こえない音を聞かせる装置なのであった。

 「難解きわまりない文章でも、「分からない分からない」と呻きながら毎日読んでいると、しだいに文章のリズムというかピッチというか、そういうフィジカルなものにこちらの身体がなじんでくる。すると、「理解できる」というより、次に何を言うかわかる感じがする。」
 「私たちは実は頭ではなく、身体で物語を読んでいるのである。」

 「身体で読む」という章の一節である。私はこれは短歌について書かれていることなのではないかと思ってしまう。それも「幸福な錯覚」なのかもしれないけれども。ただ、作品のリズムと共振するようにしながら、身体で歌を読んでいくことが大切なのは間違いないことである。
 『村上春樹にご用心』には、今回取り上げたほかにも、短歌にとって重要な視点がたくさん含まれている。日常生活のなかの細かな仕事を文学で表現する大切さを、「雪かき」という比喩を用いて論じた部分もそうであろう。水脈はさまざまな場所につながっているのである。

 
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