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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

ネット短歌の終焉
text 大辻隆弘

 「短歌ヴァーサス」が11号をもって休刊した。「ネット短歌」(便宜的にそう呼んでおく)の終焉を感じさせる象徴的な事件だと思った。
 休刊となる「短歌ヴァーサス」11号の特集は、「わかものうたの行方−ポストニューウェーブの現在」である。ニューウェーブ世代の後に出現した歌人たちの全体像を総括した特集だといえよう。ここには、ここ10年の間に登場してきたいわゆる「ネット歌人」たちをどのように位 置づけるべきなのかという問題意識に貫かれた論考が多く収録されている。
 たとえば、斉藤斎藤の「生きるは人生と違う」もそうである。彼はここで「私」の用法に注目しながら、現在の若者の短歌の特徴を鋭く分析している。
 斉藤によれば、「私」という言葉にはふたつの用法があるという。

1、私は身長178cmである。
2、私は歯がいたい。

 この二つの文における「私」の機能は実は異なっている。1の文のなかの「私」は、固有名詞「斉藤斎藤」に置き換えて「斉藤斎藤は身長178cmである」と言うことができる。が、2の「私」はそれができない。「斉藤斎藤は歯がいたい」という文は、小説ならともかく、日常的な会話文としては不自然な感を否めない。そう指摘した上で斉藤は、1のような「私」の使用法を「客体用法」と呼び、2のような「私」の使用法を「主体用法」と呼ぶ。
 その上で斉藤は、近現代短歌の「私」の用法を実例を挙げて分析してゆく。

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ      斎藤茂吉

 たとえばこの歌の場合「沈黙のわれに見よとぞ」には、押し黙っている「私」の姿を客体的に言い表わしているという点で客体的(1)な「私」が用いられている。それに対して「百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」には、「私」の目に映った現象をそのまま記述しているという点において、主体的(2)な「私」が用いられている。この歌は、沈黙している「私」を客体的にとらえた上句と、「私」の目に映った現象を主体的に捉えた下句の複合によって成り立っている……。このように斎藤は、近現代短歌の特徴を「私」の客体用法と主体用法の「複合体」として再定義するのである。
 そのような予備的な分析にしたがって、斉藤はさらに、「ネット短歌」の歌の特徴を説き明かしてゆく。

もちあげたりもどされたりするふとももがみえる
せんぷうき
強でまわってる     今橋愛

昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある  中田有里

 これらの歌において、近現代短歌にあった客体的な「私」の視点(1)はほとんど感じとれない。ここにあるのは「私」の目に映った現象そのもの記述であり、歌の内容は「いまここ」にいる「私」の目に映ったそのままだ、と斉藤は言う。「私」の「客体的用法」と「主体的用法」の「複合体」として成立していた短歌は、これらの歌において「私の主体的用法」(2)のみに限定されてしまう。このように、近現代短歌と比較対照する形で、斉藤は、「いまここにいる私」だけが突出する「ネット短歌」の特徴を明らかにしているのである。
 この分析は非常に分りやすい。この論考において斉藤は、近現代短歌の歴史の流れを視野に入れた上で、「わがまま」「無制限に拡大する私」といった批評用語で呼ばれていた若者の歌の特徴を歴史的に位 置づけている、といえる。
 たとえば「ネット短歌」という呼称ひとつとっても、その内実は曖昧模糊としていた。それは、短歌がどんな場所で作られ読まれているか、という「場」に着目した暫定的な呼称に過ぎない。インターネットが社会全体に浸透し日常となり切ってしまった現在、「場」の特異性に基づく分析は、もはや無効になっているといってよい。インターネットという「場」の分析と、その中で作られた歌そのものの分析を峻別 することが不可欠なのだ。
 ここ10年に登場してきた新しい歌人たちをインターネットという「場」に注目してカテゴライズすることは、もはや無効である。「ネット歌人」という呼称を剥ぎとられた彼らは、今、短歌の歴史の前で、自分をどう相対化してゆくかに悩んでいるようにも見える。斉藤の論考のみならず「短歌ヴァーサス」11号の全体に流れているのは、歴史的文脈のなかで自分の立ち位 置を確認しようとする新人たちの危機意識なのである。
  「ネット短歌」の興奮は去った。その後に残っているのは、短歌の歴史という巨大なものの前で、ひとりひとりのうたびとが、ちっぽけな営みを続けてゆくという、当たり前の情景だけなのだ。

 
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