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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

「不条理」を捉えようとする二歌集
text 吉川宏志

 「不条理」という言葉を、最近よく使うような気がしている。吉田秀和の最近の著作のタイトルも『たとえ世界が不条理だったとしても』である。もともとはフランスの作家のカミュが絶望的な状況を指していったabsurdeの訳語だったらしいが、現在では少し別 なニュアンスが加わっているように思われる。
 たとえば、安全だと思われていた乗り物が、大きな事故を起こす。たまたま乗っていた人にとって、それは「不条理」というほかはない。あるいはまったく無関係な人が凶悪な事件に巻き込まれる。若く健康そうだった人が、突然重い病気に罹る。それも「不条理」としか言いようがないだろう。
 しかし別の角度から見ると、現代の技術の発展によって事故の確率は相対的に低くなっているはずだし、犯罪の発生率も抑制されていく傾向にある。医学技術だって、向上していく一方だ。ところが、そのような状況であるからこそ、災いにあったとき、なぜ自分だけが……、あの人だけが……、という不平等感に襲われるのだ。「条理」すなわち管理がしっかりとしている社会だからこそ、「不条理」が恐ろしく際立ってくる。私たちはそんなパラドックスの中に生きている。
 米川千嘉子『衝立の絵の少女』、香川ヒサ『perspective』という、時代状況に最も敏感な二人の女性歌人の歌集が続けざまに刊行された。これはあくまでも第一印象なのであるが、どちらの歌集も「不条理」というものを捉えようとして苦闘しているように思われたのである。わかりやすい例をまず二首ずつ引いておこう。

死ではない牡丹の落花 自死の記事しづかに読めば奇天烈なり死は   米川千嘉子
自爆かと世界は問へりただ一度死にて砕けし少年に向き

山火事が山火事を呼び七日間燃え続けつつ何も変はらず         香川ヒサ
太陽は照らし続けむ太陽の造りし石油掘り尽しても

 四首とも必ずしも成功している歌ではないのだが、二人の特徴が明確に表れている。米川の歌は「不条理」なものを〈解釈〉しようとはせず、「不条理」のままに抱え込もうとしているのではないか。一首目の「奇天烈なり死は」は破れかぶれの表現であるが、他者の自殺がどうしても納得できない心情を、率直に述べようとしている。二首目も自爆テロかどうかの解明を急ぐ報道のなかで、無惨な死そのものを受け止めようとしているのであろう。
 香川の歌はそれとは対照的に、「不条理」とは言っても、宇宙的な視点から眺めれば別 に不条理でも何でもないのだ、ということを繰り返し主張しようとしている。いくら巨大な山火事が起きても地球は何も変わらないし、石油が掘り尽くされたとしても、太陽は変わらずに照っているはずだ。
 二人の志向するものはよく伝わってくるし、真摯さから生まれてきた表現であろうと感じる。けれども私はどこかもの足りなさや違和感を抱かずにはいられなかった。米川のように「不条理」そのものを見つめる大切さはわかる。しかし、表現が問いかけのままで停止するので、漠然とした印象や晦渋な印象で一首が終わってしまうことが多い。また、香川の歌は大きな視野で現象を把握することに終始しており、作者の生活感情は切り捨てられている。それは潔い態度であるが、自分や自分の周りの人々に災いが降りかかってきたときにも「何も変はらず」と言えるのか、という疑問は残る。
 ただ私は、米川の歌い方に、危ういけれども深い可能性を感じた。

おびただしき声絶えて声満ちるガマ幼き死者は声がはりもせず
   不登校のグループがこれから見学に来る
学校に行けるやうになるためガマにも来る この切実を何といふべき

 沖縄の集団自決のあったガマ(洞窟)を訪ねて詠んだ歌である。一首目は「幼き死者は声がはりもせず」が核心を衝いた恐ろしい表現であり、秀歌であろう。問題は二首目である。不登校の生徒が「学校に行けるやうになるため」ガマを見学するという。その大切さはよくわかるけれども、〈教育〉のために用いることに、何かやりきれないものも感じる。ここにも「不条理」は存在するであろう。米川は「この切実を何といふべき」と問いかけるだけでこの一首を終わらせている。しかしこの歌では、その宙吊りの感じがよく効いているように思われた。
 新聞記事を読んで作った歌ではうまくいかなかった表現が、実際にガマを訪れて詠んだ歌では成功しているということなのか。そう単純に割り切るべきではないのか。今後も考えていきたい問題である。

 
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