「闇」への希求
text 大辻隆弘
「まひる野」9月号で、染野太朗が「闇がない」という文章を書いている。染野は30歳くらいだろうか。この世代の閉塞感が如実に出ている文章だと思った。
彼はこのなかで、同世代の松木秀『5メートルほどの果てしなさ』の次のような歌を引用し、そのなかにある批評性を評価している。
アメリカのようだな水戸のご老公内政干渉しては立ち去る 松木秀
この歌について、染野は、内政干渉をする水戸黄門の比喩として「アメリカ」が選ばれていることに注目する。アメリカを「内政干渉」の直喩として利用している所に作者の強い批評がある、という。
が、染野によれば批評性にあふれた松木の歌の背後には、「たかが俺」という自己否定的な感覚だけがあるという。社会を相対的な目で見ながら、自分に対しては「絶望的な軽さ」だけを感じている若者。染野によれば、松木秀の歌の背後にあるのは、そのような若者像なのである。
かつて塚本邦雄の歌がそうであったように、社会に対する「毒」(批評)のある歌の背後には、社会的な価値観に背を向ける作者の確固とした思想があったはずだ。自分の視点がはっきりしているからこそ、社会や時代に対する批評が可能になる。それが批評というものの常態だといえるだろう。
が、染野がここで見ているのはそれとは逆の事態だ。批評意識を持てば持つほど自己否定に傾かざるを得ない現代。染野が松木の歌に見ているのは、そのような現代の若者たちの精神状況なのだ。
なぜ、若者たちはそのような精神状態に追い込まれるのか。染野は、その原因を「ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に」という松木の歌を引きながら、次のように言う。
そうなのだ。「闇」がないのだ。すべてが明るいのである。(略)あらゆることが、この歌集を待つまでもなく、相対化されている。だから苦しいのではないか。(略)では、本当に明るく照らすべきものは何なのか。闇のままに抱かえ込むべきものは何なのか。
たしかに、経済至上主義が行きわたり、すべてのものが商品価値に換算される現在において、すべてのものは明るく照らし出されてしまっている。そのなかで若者は、それぞれの価値観をおおっぴらにして生きている。絶対的な価値・唯一の価値は存在しない。そのような社会は、一見すれば、自由で風通
しのよい社会に見える。
が、その一方で、若者たちは、自分の価値観が相対的なものに過ぎないことを知っている。自分の価値観が「たかが俺」ひとりの価値観である無力感を感じている。したがって、社会に対する批判も「たかが俺」の口から発せられた愚痴だとしか感じられない‥‥。染野のいう「闇の不在」を、私なりに言い換えるなら、それはこのような若者たちの閉塞状況を言い表した言葉なのだろう。
そんななかで、染野は「闇のままに抱かえこむべきもの」を希求する。それは、すべてのものが均質的な明るさに晒されている中でも相対化され得ない何ものかなのだろう。自分でも判然としない、しかし、決して明るみに引き出しえない価値。私なりに翻訳すれば、染野の希求する「闇」は、そのような絶対的な自分の立ち位
置のようなものなのだろう。
前登志夫の第9歌集『落人の家』が出た。以前にも増して、前の吉野での生活の実相が、素直に表面
に出た歌集になっている。
かたはらに死者ものいふとおもふまで夜の山ざくら花をこぼせり
栃の木の空洞(ほら)を覗きてかへりきつ若葉濃くなるひかりを曳きて
真夜中のわれの燈火を見守るは生れるまへの漆黒の斜面
夜桜の背後の闇、栃の木の幹の洞、夜の漆黒の山の斜面‥‥。この歌集には実に多くの闇や暗がりが登場する。それらの「闇」は、まぎれなく作者の身辺で深く息づいている。それは、コンビニのペットボトルの隙間にあるような人工的でうすっぺらな「闇」ではない。前の歌に登場する深い「闇」は、どこかで前自身の生き方や価値観に結びついている。染野が希求する「闇」とは、あるいはこのような「闇」なのかも知れない。
が、皮肉なことに、前がこのような「闇」に出会いうるのは、彼自身、自分を「落人」に仮託しているからである。前は、この歌集の「あとがき」で次のように言う。
過酷な経済至上の世の中では、一市民として慎ましくおのれの生をいとなむ風景は、まるで落人のようにすら見えたりします。わたしの変りばえのしない老の山住を、落人の風景と見ることによって、ささやかな歌物語として、今の世を行きぬ
くことができればと感じるばかりです。
この「あとがき」を読んで、私は深く考えさせられた。本当の「闇」が「落人」にしか見えないのだとしたら、「落人」になれない私たちは、この明るく照らされた均質感のなかを滑るように生きてゆくしかないのかも知れない。
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