作品の新しさについて
text 吉川宏志
花山周子の第一歌集『屋上の人屋上の鳥』は力の籠もった一冊だが、そのあとがきでも現代短歌に対する主張が明確に語られていて、とてもおもしろかった。このようなくっきりとした意志をもった新人に出会うのは、最近では珍しい気がする。
「作品(自身のものも他者のものも)とは時間をかけて付き合いたいと思っている。歌集に収めておけばいつでも読める。読んで、その都度その作品を知る。常に過去の作品と繋がることで新たな作品を生む。これが私の快感である。/現在進行形で歌集が読まれ、読み捨てられてゆく現在の歌壇の現状を思うとき、仕方のないことかもしれないが、もったいないなあと思う。」
その一部を引いたが、いい文章だと思う。「常に過去の作品と繋がることで新たな作品を生む」ことを重視している点が、信頼できるのである。
月だけが位置を持つ空明け出してしだいに月を呑みこんでゆく
『屋上の人屋上の鳥』
たとえばこの歌は、古くから詠まれてきた〈有明の月〉を詠んでいるのだが、その捉え方がじつに新鮮である。何もない空に月だけが存在しているが、その月もやがて虚空に呑み込まれてゆく。存在と無のあわいを見つめた表現が印象深いのである。
ただ、「月だけが位置を持つ空」という描写には、
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
木下利玄『一路』(大正十三年)
などの表現の伝統があることにも注目したい。つまり、「位置」という言葉で存在をとらえた過去の作品がなければ、花山周子の新しい作品は――おそらく――生まれてこなかったのだ。「常に過去の作品と繋がることで新たな作品を生む」とは、具体的に言えば、このような現象を指しているのだと思う。
「短歌往来」九月号に、詩人の田中庸介が「カタルシスとその新しさ」という評論を書いている。
「新しさとは何か。それは、ほかの誰もやったことのない風景を提示することである。一流の文学には、新しさがなけれなならないし、逆に言えば、新しさを提示できさえすれば、それが売れようが売れまいが一流のものなのである。だからこそ、マイナージャンルたる詩歌は、常に逆説的に一流の文学たりうる。」
「ほかの誰もやったことのない」表現を目指すという姿勢は、もちろん貴重なものだろう。また、何を「新しい」と考えるかは、人によって違いがあるだろう。だから私は田中の主張を興味深く読んだ。
だが、私は過去を断ち切ることで〈新しさ〉を生み出すことを、必ずしも「一流」だとは思わない。〈新しさ〉には、歴史を引き継ぎながらみずみずしい一歩を踏み出すことで生まれてくるものもあるはずである。そして、真の新しさは、むしろ後者にあることのほうが多いような気がする。
少なくとも、「新しさを提示できさえすれば」いい、という指向は、花山周子の指摘する「歌集が〔……〕読み捨てられてゆく現在の歌壇の現状」を助長してしまうおそれがあるだろう。
* *
ただ、花山のあとがきの次の部分には、私は別の意見を持った。
「歌集を編む際にかなりのルビを振った。漢字の読みは意外なところでぶれる。私にはこれが歌集を読むときの案外な障害であったので、多少見栄えが悪くなっても振ることにした。」
と述べ、
夏の夜(よ)の救急車の音を聞きながら眠りのなかに地図できてゆく
のように「夜」のような易しい漢字にもルビが振られている。たしかに「夜」は「よる」とも「よ」とも読めるわけだが、このようにルビが多用されるのは、私にはうるさく感じられた。
読者はルビの振られていない歌を読むとき、「なつのよの」か「なつのよるの」なのか、迷いながら読んでいく。定型に合わせるなら「なつのよの」(五音)だが、「なつのよるの」(六音)とあえて破調で読んで、救急車の音が鳴り響く夜のあやうい感じを味わってみてもいい。大袈裟な言い方になるが、どちらがいいか考えながら読むことによって、読者は〈創造〉の一部に参加しているのだ。ルビを過剰に振ることは、その楽しみを半減させてしまうことになるのではないか。
短歌には古来、切り方によって意味が変わってくるものがある。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき
猿丸大夫
という小倉百人一首の歌は、「紅葉踏み分け」で切る読みと、切らない読みの二つが存在する。前者なら、歌の作者である「私」が紅葉を「踏み分け」ていることになるし、後者なら鹿が紅葉を踏んでいることになる。
私はこの二つの読みのどちらが正しいかを決めることには、あまり意味がないように思う。むしろ、答えが一つに決まらないことに、味わいやおもしろさがあるのではないだろうか。読みがそのときどきで揺らぐことによって、なまなましさのようなものが伝わってくる。歌が生まれてくる瞬間の混沌とした場に、読者も立ち会っているような感覚が生じるからであろう。「読んで、その都度その作品を知る」という花山周子の言葉は、その感覚をとらえているのではないか、と私は感じたのである。
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